大陸での活動
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1898年9月23日、平安北道龍川郡楊下面五松洞に金振健(キム・チンゴン、김진건)の三男として生まれる。父が運営していた私塾「楓谷齋」で小学生課程を終える。中国に渡り、瀋陽の小西辺門外両等学校高等科に入学するが、差別によって一学期だけ終えて帰国した。 1918年春、独立運動家の曺晩植が校長であった五山学校を首席で卒業。卒業後、李昇薫の推薦で黄海道の儆新学校の教師となるが、抗日活動で警察に逮捕される。出獄後、兄の金弘翊や五山学校で同窓だった金承倜の助けを借り、1918年9月に上海に亡命。1918年12月、韓国臨時政府と中国人の知人の助けを借りて貴州陸軍講武学校第2期に特別入学。 貴州陸軍講武学校 歩兵科と貴州陸軍実施学校山砲兵科を卒業。貴州黔軍総司令部(司令:王文華)特務大隊排長、副官などを歴任。1920年、第2次護法戦争に機関銃小隊長として参加。貴州軍内部の政治的対立が激化すると軍を去った。 1920年12月に貴州を離れ、臨時政府を訪れる。そこで盧伯麟軍務総長の指示に従い、1921年3月に上海を発ち長白市に残留していた255人からなる軍備団を説得して引率し、ソ連の遠東革命軍と合流するためにイマンへ向かった。 5月10日にイマンへ到着し6月2日に自由市を訪れ柳東悦から大韓独立軍団の状況を聞いた。大韓独立軍団は内部統一さえできておらず、各団体の意見を調整することは不可能であり、統一された軍隊に仕上げられる見込みがないと知らされ、金弘壹はひどく落胆した。柳東悦に「イマンに戻って様子を見たほうがいい」と言われ金弘壹はイマンに戻った。 イマンに戻ると6月26日に韓人団体の間で主導権を巡って武力衝突が起こり、大韓独立軍団は壊滅的打撃を受けた(自由市惨変。その後、イマンに逃れてきた張基永、李鏞、韓雲用やサハリン部隊の朴イリア(朴エルリア)らと共に韓国義勇軍軍事委員会を新設し、義勇軍司令部を設立した。3個中隊が編成され、司令官に李鏞(朝鮮語版)、第1中隊長兼参謀に林彪、第2中隊長に韓雲用、第3中隊長に金弘壹が就いた。また6か月課程の士官学校(校長:李鏞、教育長:韓雲用)が設立され、学徒隊長に就任。この時、金弘壹が所有していた中国軍官学校の教材がそのまま士官学校で使われた。 韓国義勇軍は極東共和国軍に合流して、白軍との戦闘に参加した。1922年2月以降、韓国義勇軍は独立歩兵大隊(大隊長:李鏞)としてハバロフスク周辺の警備を任され、金弘壹はこの部隊の副大隊長となった。やがて李鏞などの幹部が去ると、金弘壹が代わりに部隊を指揮するようになった。 1922年5月、極東共和国によって部隊が解体されると中国領に戻り、黄公三、宋子賢、李英伯などと中学校を設立。1923年9月に中学校が開校し、金弘壹は中国語、数学、体育を教えた。1924年、敦化の会合で、韓国義勇軍軍事委員会を復活させることが決定され、日本の捜査当局にあまり顔を知られていない金弘壹が間島龍井に派遣された。崔世平の名で龍井の明東中学校で数学と体育を教えながら、青年組織を引き受けた。教師として活動中に姓が崔の女性と付き合うようになる。当時は同姓同本同士の結婚が許されていなかったので、村では大騒ぎとなり仕方なく本名を明かした。やがて憲兵の捜査が及ぶと上海へと退避した。
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