大陸での活動とは? わかりやすく解説

大陸での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:08 UTC 版)

金弘壹」の記事における「大陸での活動」の解説

1898年9月23日平安北道龍川郡下面洞に金振健(キム・チンゴン、김진건)の三男として生まれる。父が運営していた私塾谷齋」で小学生課程終える。中国渡り瀋陽小西門外両等学校高等科入学するが、差別によって一学期だけ終えて帰国した1918年春、独立運動家曺晩植校長であった五山学校首席卒業卒業後、李昇薫推薦黄海道の儆新学校の教師となるが、抗日活動警察逮捕される出獄後、兄の金弘翊や五山学校同窓だった金承倜の助け借り1918年9月上海亡命1918年12月韓国臨時政府中国人知人助け借りて貴州陸軍講武学校第2期に特別入学貴州陸軍講武学校 歩兵科貴州陸軍実施学校山砲兵科卒業貴州黔軍総司令部司令王文華特務大隊排長、副官などを歴任1920年第2次護法戦争機関銃小隊長として参加貴州内部政治的対立激化すると軍を去った1920年12月貴州離れ臨時政府訪れる。そこで盧伯麟軍務総長指示従い1921年3月上海発ち長白市に残留していた255からなる軍備団を説得して引率しソ連遠東革命軍合流するためにイマン向かった5月10日イマン到着し6月2日自由市訪れ柳東悦から大韓独立軍団の状況聞いた大韓独立軍団は内部統一さえできておらず、各団体意見調整することは不可能であり、統一され軍隊仕上げられる見込みがないと知らされ金弘壹はひどく落胆した柳東悦に「イマン戻って様子見たほうがいい」と言われ金弘壹イマン戻ったイマンに戻ると6月26日韓人団体の間で主導権巡って武力衝突起こり大韓独立軍団は壊滅的打撃受けた自由市惨変その後イマン逃れてきた張基永鏞、韓用やサハリン部隊イリアエルリア)らと共に韓国義勇軍軍事委員会を新設し義勇軍司令部設立した。3個中隊が編成され司令官鏞(朝鮮語版)、第1中隊長参謀林彪、第2中隊長に韓用、第3中隊長に金弘壹就いた。また6か月課程士官学校校長鏞、教育長:韓用)が設立され学徒隊長に就任。この時、金弘壹所有していた中国軍官学校の教材そのまま士官学校使われた。 韓国義勇軍極東共和国軍に合流して白軍との戦闘参加した1922年2月以降韓国義勇軍独立歩兵大隊大隊長鏞)としてハバロフスク周辺警備任され金弘壹はこの部隊の副大隊長となった。やがて鏞などの幹部が去ると、金弘壹代わりに部隊指揮するようになった1922年5月極東共和国によって部隊解体される中国領に戻り、黄公三、宋子賢、李英伯などと中学校設立1923年9月中学校開校し金弘壹中国語数学体育教えた1924年敦化会合で、韓国義勇軍軍事委員会を復活させることが決定され日本の捜査当局にあまり顔を知られていない金弘壹間島龍井派遣された。崔世平の名で龍井の明東中学校数学と体育を教えながら、青年組織引き受けた教師として活動中に姓が崔の女性付き合うようになる当時同姓同本同士結婚許されていなかったので、では大騒ぎとなり仕方なく本名明かした。やがて憲兵捜査が及ぶと上海へ退避した

※この「大陸での活動」の解説は、「金弘壹」の解説の一部です。
「大陸での活動」を含む「金弘壹」の記事については、「金弘壹」の概要を参照ください。

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