大下騒動
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金銭面でのトラブルが元で大下と東急球団との間に確執が生まれ、1951年オフにはパ・リーグ全体を巻き込んだ移籍騒動(いわゆる「大下騒動」)となる。 かねてより、大下の母親はヒロポン中毒に苦しんでおり、大下が球団から前借りした借金は170万円にものぼる膨大なもので、かなりの部分が母親への薬代に消えていったと言われている。一方、1948年オフの急映から大映スターズの分離に伴って、東急側は選手不足となったため、球団に頼まれて大下は選手を集めていた。しかし、球団は大下が集めた選手に対する契約金を払おうとしなかったことから、大下が球団フロントに抗議したところ「文句があったら借金を全部払ってからにしろ」と返される。これに激怒した大下は金策を尽くして球団に借金を返済の上、「東急に残るくらいなら辞める」と他球団への強い移籍希望を伝える。球団側の慰留にも大下の決意は変わらなかった。このまま契約が成立しなかった場合に保留選手とする方法もあったが、給料の一部は払わざるを得ない上に試合には出場できないため、やむなく球団側は大下の移籍に向けて対応を開始した。 まず、同年12月28日に東急球団オーナー・大川博による大下弘放出の談話がスポーツ新聞に掲載される。これに対して、新興球団の西鉄ライオンズが金に糸目を付けずに大下弘獲得に乗り出す。監督の三原脩が直接東京の田端にあった大下の自宅を訪問して西鉄への移籍を打診すると、大下は快諾。早速、三原は東急球団代表・猿丸元に会って交渉を行った。明けて1月5日に西鉄球団代表・西亦次郎が上京して猿丸と会談し、東急の大下と西鉄の緒方俊明・深見安博の交換トレードを決める。更に慎重を期して、西日本鉄道会長・野中春三が東京急行電鉄社長・大川博を訪問してお礼を伝えた。なお、西鉄のほか、毎日オリオンズ・阪急ブレーブス・近鉄パールスも大下獲得を狙っていた。毎日は伊藤庄七・片岡博国を交換要員としてあげるが、荒巻淳を求める東急側と折り合わず、阪急は戸倉勝城との交換を打診するが東急は阿部八郎を要求し、いずれも話は流れた。 しかし、ここで大下が行方を眩ましてしまう。東急側が手を尽くして探した結果、大下が秋田に潜伏している情報を掴んで、西鉄側に伝えた。関係者からほとぼりが冷めるまで隠れるように言われた大下は、東急の先輩で秋田にいた赤根谷飛雄太郎のつてである料理屋にいたという。三原は大下の自宅の留守番をしていた母親のもとを訪ねると、大下の去就を一任されている代理人と称する人物がいた。その代理人を介して大下と連絡がつき、1月19日に神楽坂の料亭で大下本人、代理人、代表・西、主将・川崎徳次が協議し、契約金・給料を決めるも、契約書への署名捺印の段になったところで、大下は母親と相談したいと捺印を拒んだまま、再び姿を消した。 その後、代理人が近畿日本鉄道が会合に使っている隅田川近くの料亭に出入りしており、近鉄パールスが大下に手を伸ばしていたことが判明。さらに。差出人大下弘名で西鉄球団社長宛に「御社と契約した覚えはない」旨の怪文書が届くが、保存してあった大下のサインと筆跡が異なり偽筆であることがわかった。また、運輸大臣・佐藤栄作がこの騒動に介入し、かつて鉄道局に在籍していた東急・大川に対して、大下を近鉄に移籍させるよう圧力をかけたとも言われている。まもなく、パ・リーグ理事長の村上実から各球団代表に対して、①大下問題は白紙に戻す、②大下の獲得を希望する球団は改めて理事長に連絡すること、の2点が伝えられる。これに対して、西鉄のみが大下獲得の意思を表明し続け、近鉄を含む他球団からの申し出はなかった。またこの頃、東急・大川は大下の代理人との話として、大下は近鉄への移籍を希望している旨を、西鉄・西に語っている。 3月上旬のパ・リーグ代表者会議で、パ・リーグ会長・福島慎太郎から各球団代表に対して、①大下は西鉄へ移籍させるよう努力する、②近鉄は大下獲得のために多額の金銭を使ったことから西鉄から近鉄に対して大下の代わりになる選手の供出を希望、③毎日には獲得を断念させる、の3点が伝えられる。その後、東急社長・大川博、近鉄社長・佐伯勇、西鉄社長・木村重吉のトップ会談が行われ、①大下は円満に西鉄へ移籍、②西鉄から東急へ緒方俊明・深見安博が移籍、③西鉄から近鉄へ鬼頭政一が移籍、との方針を決定した。 しかし、3月下旬になってシーズンが始まってもなお、大下の行方が掴めず問題が決着しなかったため、4月初旬にパ・リーグ会長の福島は西鉄・西に対して、説得に従わない大下をプロ野球界から追放する覚悟、を伝える。これを受けて、西鉄は苦労して大下を探し出して面会したところ、大下自身は西鉄への移籍を望んでいるが、代理人が反対している旨を話す。そこで、西鉄側から代理人に連絡すると、何もなかったように大下と契約しても構わない旨を伝達された。こうして、4月11日になってようやく大下の西鉄移籍が実現し、騒動が決着した。 移籍後に後楽園球場の東急ファンから受けた野次に対し、大下は出塁した一塁上で観客席に向かって頭を下げ、これには東急ファンも黙るしかなかったという。また、平和台事件の際、暴行を受けて血まみれになりつつも観客を制止しようとした行動が称えられ、野口と共に連盟表彰を受賞した。なお、大下のトレード相手であった深見安博は25本塁打を記録して本塁打王となり、プロ野球史上唯一の「2チームに在籍した本塁打王」となっている。
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