墳形、墳丘と周溝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
高尾山古墳の墳丘は、前方部には熊野神社、後方部には高尾山穂見神社があったことなどによって改変を受けている。特に前方部は神社の境内を造成したため、墳丘上部が全面的に削られている。後方部も墳丘の周囲に神社の擁壁が築かれたために規模が小さくなっている。また墳丘上部も数十センチ削られてしまったと推定されている。またかつて墳丘に防空壕が複数掘られており、これも墳丘破壊の一因となった。 そして古墳の西側は道路(市道)によって広く削られている。この道路は1920年(大正9年)に旧金岡村の村道とされており、それ以前も道路であったと見られ、西側の墳丘と周溝はかなり以前から削られていたものと考えられている。高尾山古墳の総面積は推定約3030平方メートルで、そのうち平面上現存している部分は約2200平方メートルであり、平面の残存率は約73パーセントである。ただし周溝の下部については市道の路盤の下に残存していると推定されている。 高尾山古墳の墳丘の主軸は南北方向である。墳丘の平面形状については、前述のように主として墳丘と周溝の西側が道路などによって削平されてしまっているため、想定による部分もある。墳丘の全長は62.178メートル、前方部長は30.768メートル、後方部長は31.768メートルである。墳丘の西側が形状が明らかとなっている東側と対称形をしているとすると、後方部は北辺が29.182メートル、南辺が35.7メートルとなり、北辺が南辺よりもやや短い台形状をしている。また後方部の各隅は丸みを帯びている。前方部の形態は後方部との接続部分から南側に向けてやや広がる形態をしており、撥形をしていると判断されている。 周溝については、おおむね墳丘に沿って8メートルから9メートルの幅となっている。しかし前方部前面(南側)の周溝は、幅2.5メートルから3.2メートルと狭く、また前方部前面の南東部約6.4メートルの間は周溝が途切れ、土橋となっている。そして前方部南側の周溝から更に南側約4メートルのところに、幅約1メートルの東西方向に走る溝が検出されている。この溝から出土した土器は弥生時代終末期から古墳時代のものであり、溝が南側周溝と並行していること、更には東端が高尾山古墳の墳丘南東側で終わっていて、墳丘南東部の土橋の機能を補完するとも考えられることから、高尾山古墳を構成する要素の一つと判断されている。なおこの溝の西側がどこまで続いているかは未確認であるが、溝の先には高尾山古墳被葬者の居館跡の候補地のひとつとされる入方遺跡がある。 墳丘についても、前述のようにやはり西側は道路(市道)によって広く削られている。また後方部は高尾山穂見神社の擁壁、防空壕などによって、前方部も熊野神社の境内造成によって、どちらも改変を受けている。比較的築造当時の状況をとどめていると考えられるのは、かつて高尾山穂見神社の社殿への階段となっていた後方部の南側斜面のみであった。後方部南側斜面の斜度は約30度であり、これは斜面の安全性を考慮した傾斜であると考えられる。 高尾山古墳の大きな特徴の一つとされているのが、古墳築造に際して大規模な丘陵部の削平が行われたことである。これは周溝東側で確認されている住居跡から判明した。高尾山古墳築造後の律令時代に建てられたものと考えられるこの住居跡の、その床面が当時の地表面から3メートル近い深さのニセローム層の下位の黒土層にまでに達しているのである。愛鷹山山麓の律令時代の住居跡は、深く掘り込まれていたとしてもニセローム層の上層である上部ローム層最上部にあたる休場層までがせいぜいである。ところがニセローム層を超えて黒土層まで達するということは、住居建設時点で土地が削られていたこと、すなわち高尾山古墳築造に際して土地の削平が行われたことを示している。この削土は最大2メートルに及んだと推定されており、墳丘を築造する用土の確保、丘陵を削平して平坦面を造成することによって、古墳の大きさや形を誇示するといった目的が考えられている。このような古墳築造に伴う丘陵部の大規模削平という大きな土木工事は、他の古墳出現期の古墳では確認されていない。高尾山古墳の被葬者が多くの建設要員を動員できた上に、大きな経済力も持っていた、と想定される。 丘陵部の大規模削平による造成工事の終了後、周溝の掘削が行われたと考えられている。周溝は削平後に掘削されたため、北側ではニセローム層、南側では休場層から掘り込まれている。なお後方部は弥生時代最末期から古墳時代初頭にかけて降下した新期スコリア層の上に築造されており、少なくとも後方部に関しては現地形を改変せず、盛土を行ったと考えられている。丘陵部の削土や周溝の掘削により発生した土は墳丘の築造に用いられたと考えられているが、愛鷹山麓の上部ローム層のスコリア層は粘り気がなく崩れやすい性質であるため、黒色土や粘性がある土と混交させた上で使用したと見られている。また後方部墳丘は、少しずつ土を盛っては突き固めていく、いわゆる版築工法を用いて築造された。現状では後方部の高さは4メートルあまりとなっているが、埋葬施設や埋葬施設上の土器の出土状況から約50センチメートル削平されたと考えられるため、築造当初、後方部の盛土は高さ5メートル近くに達したものと推定されている。 前方部については熊野神社造成に伴う土砂の直下が休場層であり、休場層でその墳形が確認されている。そのため前方部では古墳築造前の削平は行われたのか、また築造時の盛土がどのように行われたのかについて、直接的な情報は得られていない。しかし全く推定できないわけでもない。比較的原型をとどめていると考えられる後方部南面の斜面は、後方部と前方部の接続地点に向けて新期スコリア層付近まで続いていることが確認されている。更に、後方部周辺の周溝からは墳丘からの崩落土が検出されるのに、前方部周辺の周溝からはほとんど検出されない。これらのことから、前方部の墳丘は低く、盛土はほとんど行わずに周溝を掘削してその形を作りだしたと考えられている。 高尾山古墳の墳丘には葺石は無く、埴輪も無い。また高尾山古墳の築造企画については、寺沢薫が初期前方後円墳と同様とする円形企画、北條芳隆が方形の企画を提唱している。北條は前方後方墳としては滋賀県の富波古墳、前方後円墳では山梨県の甲斐銚子塚古墳の築造企画との相似を指摘している。北條はまた、築造企画の源流はヤマト王権にあったと推定されるものの、高尾山古墳に代表される駿河湾沿岸部の古墳築造企画が、古墳築造開始当時の関東、東北地方に広まっていった可能性が高いとしている。 そして前方後方墳における高尾山古墳の位置づけとしては、前方部が後方部と同程度の長さをしており、前方部が大きいことを注目する意見もある。弥生時代の前方後方系の墳丘墓の多くは前方部が短小であり、前方部が発達した高尾山古墳は墳丘墓の段階を超え、初期的な前方後方墳としての位置づけが妥当であるとしている。その一方、周溝が全周せずに前方部東南に土橋を残しているのは、定型化が完成した前方後方墳ではなく、前段階の古い要素も残しているとする。また前方部、後方部の形態から、千葉県木更津市の高部32号墳との類似を指摘する意見もある。そして両古墳の墳形の源流は東海西部であるとみなし、古墳出現期に沼津と木更津に忽然と現れた高尾山古墳と高部32号墳は、ともに在地の勢力による古墳ではなく、東海西部の勢力による築造の可能性が高いとする説がある。
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