墳形・周濠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 23:50 UTC 版)
後円部は3段築成で、1段目は地山を削り出して造られており、2段目3段目は盛り土で作られている。2段目平坦部には埴輪列がある。周濠や陵橋は、1段目と同時に造られた。
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墳形・周濠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 21:17 UTC 版)
前方部を南に向けた前方後円墳で、前方部と後円部のつなぎ目のくびれ部には左右に造出しを設けている。墳丘は3段からなるが墳丘には多くの谷があり、宮内庁所蔵の実測図でも墳丘の等高線の乱れが著しい。この谷の成因については自然崩壊のほかに、墳丘が未完成だったという説も提起されている。 現在墳丘は三重の周濠で囲まれているが、江戸時代の元禄年間に当時の堺奉行所の指示で最外部の濠は一部を除いて畑地に開墾され、ほぼ二重濠のような見かけになっていた。江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠は元々は三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し、復元されたものである。明治政府によって行われた再掘削工事によって濠が築造時通りに復元されたかは疑問が残る。 周濠は内側から第1堤、第2堤と呼ばれており、2021年には第1堤の幅約2メートルの上端両側に、直径30~35センチの円筒埴輪を繋げて並べた列が発見され、この2列が第1堤を1周していたと推定された。また貴人のかぶる笠を模した木製品を立てた跡らしきものも発見された。5世紀前半から中頃の築造と見られている。
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