墳墓の建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
皇后の羊氏が亡くなり、劉曜は献文皇后と諡した。 劉曜は、無官の人が許しなく乗馬する事、俸禄800石以上の婦女が錦繍の衣を着る事、晩秋から農耕が終わるまでの時期に飲酒する事、宗廟や社稷の祭り以外で牛を殺すことを全て禁じた。これらの禁令を違反した人は、みな死刑になった。劉曜は太学に臨み、試験の成績が優秀な者を郎中に取り立てた。 12月、劉曜は父と妻の葬儀の為に、自ら粟邑に行った。土を背負って墳墓を作るよう指示し、その外周は2里と決めた。昼夜休まず工事が続けられ、延べ6万の人夫が動員された。劉曜は100日で完成させるよう命じたので、民衆は労役に苦しみ、怨呼の声が道路に満ち溢れた。游子遠は「臣が聞くところによりますと、聖主・明王・忠臣・孝子が終葬を行う際、棺は身を置ける程度に、槨は棺を収められる程度に、蔵は槨を収められる程度に留めました。また、土を積んだり木を植えたりするようなことはせず、これを無窮の計としたといいます。謹んで思いますのは、陛下はその聖慈を幽かに覆い、神鑒を遠く深くし、いつも清廉質素を以って下々を憂えることを第一としていただき、社稷と資儲を本とすべきであると。今、二陵の費用は、億計に至っており、6万の人夫に百日動かすのは、600万の役夫を用いるのと同じ事です。二陵はどちらも、下は三層の地下水脈を貫くほど深く、上は100尺と高く、積まれた石は山の如く、増土は丘の如く、発掘した古塚は千百数に上ります。人夫は嘆きの声を上げ、精神は天地を塞ぎ、骸は原野に晒され、泣声は巷に溢れています。臣が言いたいのは、この事は先帝先后にとっても益にならず、国力をいたずらに失うだけだと言う事です。陛下が堯・舜に続くことを望まれるのであれば、功は百万を超えてはならず、費も千計を過ぎてはなりません。下に怨骨、上に怨人が無くなれば、先帝先后には泰山の安が訪れ、陛下は舜・禹・周公の美を受ける事となりましょう。陛下がこれを察せられますように」と諫めたが、劉曜は聞き入れなかった。将軍の劉岳らに騎兵1万を与え、父と弟の劉暉の棺を太原に迎えさせた。この時、疫病が蔓延し、10人のうち3・4人が死んだ。劉曜は父を埋葬すると、墓号を永垣陵とし、妻の羊氏を埋葬すると、墓号を顕平陵とした。領内で死刑以下に大赦を下し、爵位二級を下賜した。孤児・老人・貧乏・病気の者で、生活出来ないほど苦しい者に、それぞれ帛を下賜した。 大雨が続き、劉曜の父墓の門屋がきしんだ。大きなつむじ風が吹くと、父の寝堂が垣外の50歩余りのところへ吹き飛んだ。これを聞いた劉曜は正殿を避け、喪服を着て、東堂で5日間の哭礼を行なった。また、鎮軍将軍劉襲や太常梁胥らに命じて、父の陵墓を修繕させた。松柏や衆木は、植えてから既に林と成っていたが、尽く使われて無くなった。 劉曜は大司馬劉雅を太宰に任じ、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特権を与えた。
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