土木の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:49 UTC 版)
詳細は「土木の変」を参照 1449年、エセンは貿易の復活と侮辱に対する報復を果たすため、トクトア・ブハ・ハーンと協同して明へと侵攻した。 7月、オイラト軍は陝西・山西・遼東の三方面から攻め込んだ。トクトア・ブハ・ハーンは東から南下し、エセンは中央の軍を率いて山西に侵攻、8月に大同(現在の山西省大同市)に兵を進めた。 これに対して、若く血気盛んであった明の正統帝は、側近の王振の出撃すべしとの進言を受け入れて自ら山西へ親征を行った。8月初頭、北京を出撃した号数50万人(実数は号数より少ないと推定される)の皇帝軍は同月末に大同に到着したが、このときすでに大同はエセンに襲われた後で、2万人規模のオイラト軍は掠奪を終えて引き上げていた。 大同は北方を長城によって護られた国境内の都市であったので、オイラト軍はこれまでの侵攻のように主に国境地帯を襲撃するだけだと思い込んでいた明軍は見込みを外され、オイラトの攻撃を避けて大同から北京に戻ることにした。しかし悪天候で大軍の行軍がはかどらないうちに明軍の撤退を察知したオイラトの騎兵部隊は4日にわたって長城を越えて明軍の背後を繰り返し襲い、9月4日には宣府(現在の河北省張家口市宣化区)にいた明の殿軍を破った。ようやく宣府の東方近くにある土木堡に達していた明軍は、ここで2万のオイラト軍に包囲された。9月5日、明軍は数十万人と言われる戦死者を出し、兵士だけでなく従軍の大官たちを含め、正統帝自身を除いたほとんどが全滅した。 正統帝は捕縛されて、宣府の近くにいたエセンの幕営に連行された。エセンは正統帝の身代金を明朝に要求したが、従軍して全滅した大官たちにかわって政府の主導権を握った兵部尚書于謙は、身代金の支払を拒絶した。これは、彼が皇帝の命よりも国家の運命が重要と考え、また身代金を支払えばオイラト軍の士気を高め、明軍の士気を落とすと判断したからである。 そして于謙は正統帝の弟・朱祁鈺を立て、景泰帝として即位させた。あてがはずれたエセンは、再び明に侵攻して北京を包囲した。北京の人々はエセンの攻撃に脅えたが、于謙の手腕を信じ、その指揮下に入った。于謙は北京の城壁の守りを固めて、オイラト騎兵の矢による攻撃を封じただけでなく、わざと城門を開いて城内に入り込んだオイラト兵の退路を断って殺したり、エセンの義弟を殺したりして、オイラトの戦意をくじく策をとった。エセンは5日間の包囲の末に兵を引き上げ、ついには身代金の要求を諦めた。 翌1450年の秋、エセンは正統帝を無条件で明に送り返した。オイラトの経済は朝貢貿易に依存していたため、エセンはなんとしてでも和議を結んで貿易を再開せざるを得ず、正統帝の身代金問題の長期化は、オイラトにおけるエセンの統治力を脅かすだけであったためである。明・オイラト間の貿易関係は土木の変の間も続いていたが、事態が進展するにつれ、エセンは明朝間の貿易再開を受け入れざるを得なかった。 エセン側は朝貢貿易で維持されている以上、正統帝を害することは不可能で、かつ長期戦の準備はしていなかったため、城攻めを出来ないエセンの弱みを良く見通していた于謙達の作戦勝ちとなった。エセンは戦では完勝したが、政治では自己の影響力を低下させ大敗を喫した。
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土木の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 08:01 UTC 版)
「土木の変」を参照 この時期のオイラトは、エセンが出現したことで強大な政治勢力に成長していた。エセンは朝貢貿易による利益確保と、それを利用した政治体制の強化を目指し、明との交易交渉に臨むが、交渉が決裂したことでエセンは明領に侵入した。 正統14年(1449年)、王振はエセン征伐のため正統帝に親征を要請、朝廷内の反対を押し切り、行軍の規模を誇示するために、閣僚などの文官も含めた50万の軍勢による北方攻撃に着手した。明軍が大同まで至ると、明軍の敗北の報告を受けた王振は、オイラト勢力の軍事力を恐れて撤退を決意する。北京までの帰路、輜重部隊を待つために土木堡で野営した。そこをエセン率いる軍勢が攻撃、明軍は壊滅的な被害を受け、正統帝はオイラトの捕虜となった(土木の変)。しかし、エセン側としては貿易交渉の延長線上の戦闘であったため、捕虜となった正統帝は厚遇され、2人は友人付き合いをするほどまでに親密な間柄となったという。 皇帝捕虜の知らせを受けた朝廷では、南京への遷都も検討されていたが、于謙の反対で北京に留まり、皇弟の朱祁鈺が即位した(景泰帝)。于謙は石亨らと協力して、兵力を北京とその周辺地域に集中して軍備を強化し、また責任所在を明確にするため王振派を粛清して士気を高め、オイラトの攻撃から北京を防衛した。景泰元年(1450年)に両者間で講和が成立し、正統帝も明朝に送還されて太上皇となった。
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土木の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 07:54 UTC 版)
正統14年(1449年)7月、モンゴルの実力者でオイラト部のエセンが大軍を率いて明に侵攻してきた。これに対し王振の意見で正統帝の親征が行われ、50万の大軍が居庸関を越えた。于謙をはじめ多くの廷臣たちは極力親征に反対したが聞き入られず、その結果は土木堡における明軍の大敗だった。王振はじめ従軍した多くの将兵が戦死し、英宗は捕虜となり、エセンはさらに首都北京に侵攻する勢いを見せた。
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