土木の変まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:49 UTC 版)
1440年と1445年、エセンはゴビ砂漠とタクラマカン砂漠の間のシルクロード上にあるオアシス都市、ハミへ2度の遠征を行った。これによりエセンの勢力は中央アジア方面に広がり、東トルキスタンを支配する東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)やカザフ草原のウズベクとも戦ったと伝えられている。また1446年にはモンゴル高原東部の興安嶺方面に進出し、同地位のモンゴル系集団ウリヤンハイ三衛を服属させ、さらに興安嶺を越えて女直、朝鮮にまで勢力を伸ばした。 明との間では、父の時代以来の友好関係を保ち、朝貢使節を盛んに派遣した。これは、交易を主要な収入源とする遊牧国家の存立のためには朝貢貿易による中国物産の入手が不可欠だったからであり、明の側から見れば朝貢によってモンゴル高原の諸勢力を個々に手なずけて勢力の分断と均衡をはかり、また朝貢に対する恩賞の名目で与える金品によって平和を購う意図があった。 しかし、オイラトの強大化によって分断政策は無効となり、またオイラトの支配を嫌う部族が南下して明領に入り込むようになって、明の対モンゴル政策は危機に瀕した。さらに、皇帝から与えられる金品の量は朝貢使節の人数に応じることを利用し、オイラトは朝貢使節を明から指示された人数を大幅に越えて送り込むようになり、1448年にはトゴン時代の数十倍にあたる3598人を送ると明に通告した。 明ははじめ、オイラトを慰撫する政策を維持するために、規定を超過する朝貢使節を受け入れ、数多くの恩賞を与えたが、大量の使節の入朝は明にとって過大な負担となった。また、使節の実数を調べたところオイラト側の通告よりも大幅に少なく、恩賞を多く受け取ろうとしていることがわかったため、1448年の入朝を機に寛大な態度を改め、恩賞の額を切り下げた。 オイラトのエセンの側にとっては、恩賞として与えられる中国の物産は、急速に膨張したオイラト勢力の統一を保つために不可欠だったので、明の政策転換はとうてい受け入れられるものではなかった。また、明側の交渉者はエセンの息子と明の皇女を婚姻させるといった約束をしていたにもかかわらず、こうした約束の存在を関知していなかった明の朝廷はこれを否認したため、エセンの怒りを買ったという。
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