土木堡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:31 UTC 版)
兵部尚書鄺埜は居庸関に入ることを提案したが、王振はこの提言を退けた。土木堡は台地になっていて水源に乏しい上に、土木堡の南にある河川周辺はオイラト軍に占拠されていたため、明軍は深刻な飲料水の不足に苦しんだ。8月15日、エセン率いるオイラト軍は明軍を包囲し、攻撃をしかけた。明軍は疲労し、王振と反王振派に内部分裂しており、士気も低かったため、この攻撃を防ぎきれずに大敗した。明軍の兵士は半数が戦死し、百名を超す文武諸官も数人を除いて全て戦死した。英宗は捕虜となり、エセンの幕営に連行された。王振は護衛将軍樊忠によって殺害されたが、樊忠が戦死した。また、大量の物資がオイラト軍によって奪われた。 明軍の遠征は十分に計画が練られ準備されたものではなく、総司令官が専門の軍人ではない王振だったことなどが、この大敗を招いた。50万と号される明軍に対し、オイラト軍はわずか2万の騎兵であったため、勝利したエセンにとっても予想外の事態であった。ただし兵数は号数であり、実数は不明である。中国の歴史上、実際の兵数は号数の半分もいない例も多く、数分の一程度の場合もある。また明軍はほとんどが歩兵のため、ほとんど全員が騎兵のオイラト軍は、機動力において圧倒的に有利である。
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