明軍の出撃とは? わかりやすく解説

明軍の出撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:31 UTC 版)

土木の変」の記事における「明軍の出撃」の解説

1449年正統14年7月エセン名目上主君であるモンゴルハーントクトア・ブハ協力し、陝晋遼の3方面より明領へ侵入した中央軍率いて山西侵攻したエセンは、騎兵2により大同進軍する当時明の権力を掌握していた宦官王振正統帝親征要請朝廷内の反対押し切って王振総司令官とし、50万と号する大軍召集され20人の武官多く文官とともに出撃した。 7月15日エセン長城陽和にて侵入、明の西寧侯宋瑛(永楽帝の娘の咸寧公主智明の夫)や武進朱冕などが率い守備軍と衝突し、宋瑛・朱冕戦死した7月17日正統帝異母弟である祁鈺(後の景泰帝)に留守任せ親征軍を率いて北京出発した親征軍は北京から居庸関通過、宣府(現在の河北省張家口市宣化区)を経由して大同方面草原地帯西進した。 明軍内部では、豪雨による泥濘とそれに伴う食糧輸送の困難のため動揺発生していた。居庸関では、文武諸官北京への帰還要求したが、王振はその意見退ける。反対派による王振暗殺計画発覚した8月1日明軍大同到着したが、大同庁に派遣され九死に一生得て生き残った腹心宦官郭敬より前線部隊がほとんど全滅した報告聞いた王振は、オイラト軍の脅威知り大雨理由撤退開始するこの際、「この進軍勝利終わった」と宣言し、皆が驚愕した記録されている。王振紫荊関(現在の河北省保定市易県北西部)を経由し自身出身地である蔚州英宗案内しようとしたが、大同総兵郭登と大学士曹鼐たちの反対により、行軍経路北寄りに変更した。だがこのルートは、機動力すぐれた騎兵主力とするオイラト軍から追撃を受けやすいルートであった8月13日エセンは宣府を経由して撤退する明軍追撃開始し明軍恭順呉克忠とその弟の呉克勤などが戦場で、成国朱勇永順薛綬児嶺で戦死した明軍懐来城から20里の位置にある土木堡到着王振は1,000輌の輜重車率いていては城まで到達できない判断し、この地での露営命じた

※この「明軍の出撃」の解説は、「土木の変」の解説の一部です。
「明軍の出撃」を含む「土木の変」の記事については、「土木の変」の概要を参照ください。

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