明軍の出撃
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1449年(正統14年)7月、エセンは名目上の主君であるモンゴルのハーンのトクトア・ブハと協力し、陝晋遼の3方面より明領へ侵入した。中央軍を率いて山西に侵攻したエセンは、騎兵2万により大同へ進軍する。当時明の権力を掌握していた宦官の王振は正統帝に親征を要請。朝廷内の反対を押し切って王振を総司令官とし、50万と号する大軍が召集され、20人の武官と多くの文官とともに出撃した。 7月15日、エセンは長城の陽和にて侵入、明の西寧侯宋瑛(永楽帝の娘の咸寧公主朱智明の夫)や武進伯朱冕などが率いる守備軍と衝突し、宋瑛・朱冕が戦死した。7月17日、正統帝は異母弟である朱祁鈺(後の景泰帝)に留守を任せ、親征軍を率いて北京を出発した。親征軍は北京から居庸関を通過、宣府(現在の河北省張家口市宣化区)を経由して、大同方面へ草原地帯を西進した。 明軍内部では、豪雨による泥濘とそれに伴う食糧輸送の困難のため動揺が発生していた。居庸関では、文武諸官が北京への帰還を要求したが、王振はその意見を退ける。反対派による王振の暗殺計画が発覚した。8月1日、明軍は大同に到着したが、大同庁に派遣され九死に一生を得て生き残った腹心の宦官郭敬より前線部隊がほとんど全滅したの報告を聞いた王振は、オイラト軍の脅威を知り、大雨を理由に撤退を開始する。この際、「この進軍は勝利に終わった」と宣言し、皆が驚愕したと記録されている。王振は紫荊関(現在の河北省保定市易県北西部)を経由し、自身の出身地である蔚州に英宗を案内しようとしたが、大同総兵郭登と大学士曹鼐たちの反対により、行軍経路を北寄りに変更した。だがこのルートは、機動力にすぐれた騎兵を主力とするオイラト軍から追撃を受けやすいルートであった。8月13日、エセンは宣府を経由して撤退する明軍の追撃を開始し、明軍の恭順伯呉克忠とその弟の呉克勤などが戦場で、成国公朱勇・永順伯薛綬が鷂児嶺で戦死した。明軍は懐来城から20里の位置にある土木堡に到着、王振は1,000輌の輜重車を率いていては城まで到達できないと判断し、この地での露営を命じた。
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