明軍:清への帰順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
崇禎帝は、4月5日に呉三桂に緊急の援助要請をしていた。呉三桂は、崇禎帝から助けを求められて間もなく寧遠要塞を去り、北京に向かった。4月26日、軍は万里の長城の東端である山海関を通って移動したが、北京が順軍によって陥落したと聞き、山海関に戻った。李自成は、呉三桂に貴族の地位や高官と引き換えに降伏を求める使者を送った。呉三桂は降伏を決定するまでに数日を要したため、李自成は申し出が拒否されたと考え、呉三桂の父親を打ち首にさせる。すでに呉三桂は李自成への降伏を決めて亡命する途中であったが、取りやめて清に亡命を決めた。李自成は山海関に2軍を送ったが、呉の部隊は5月5日と5月10日に簡単に勝利した。李自成は呉を攻撃するために5月18日に北京を出て6万の順軍を率いた。 同じ頃、呉三桂は李自成を排除して明を復興するために、清に助けを求める手紙をドルゴンに書いた。ドルゴンの助言者である洪承疇と范文程は、「仁義の軍を率いて流族を滅ぼす」という天命に訴える印象を与えるために、北京占領を要請した。したがってドルゴンには、呉の手紙を受け取った時には北部を攻撃するつもりはなく、明を復興するつもりもなかった。その代わりにドルゴンが呉に清のために働くか尋ねた時、呉にはほとんど選択肢はなく受け入れるしかなかった。
※この「明軍:清への帰順」の解説は、「明清交替」の解説の一部です。
「明軍:清への帰順」を含む「明清交替」の記事については、「明清交替」の概要を参照ください。
- 明軍:清への帰順のページへのリンク