明軍の被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 19:19 UTC 版)
この戦いでは、歩兵・火器を温存した明軍は騎兵中心の編成となっていたが、碧蹄館の地は騎兵の機動力を活かすことの出来ない狭隘な渓谷であり、かつ前夜よりの雨で泥濘地と化していた。騎馬に不適な戦場であったこともあり、この一戦で明軍の被った損害は甚大で、戦死者数6,000余に上るとされる。朝鮮王朝実録の記事では、日本軍戦死120人、明軍死傷1,500人とあり、朝鮮王朝実録の別の記事では、日本軍と明軍の死傷者が双方500~600人とある。また別の記事には「天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」という記述もある。更に朝鮮王朝実録の記事では、李如松の麾下の親衛隊の内、李有升ら勇士80人余りが戦死した事も記されている。また家丁の李文升も戦死した。 李如松軍のために兵糧等の手配もしていた、朝鮮の宰相である柳成龍が著述した懲毖録には、「李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊(日本軍)は歩兵でその刀剣はみな3,4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。提督は後続軍を呼び寄せたが、その到着以前に先軍は既に敗れ死傷者が甚だ多かった。日暮れに提督は坡州に戻った。その敗北を隠してはいたものの、気力を沮喪すること甚だしく、夜には親しく信頼していた家丁の戦死を痛哭した。」とある。
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