北京防衛戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:31 UTC 版)
エセンは明の朝廷に英宗の身代金を要求し、有利な条件で講和を結ぼうと図った。一方、北京では皇帝捕わるの報で朝廷内に動揺が走ったが、兵部尚書于謙・吏部尚書王文らは朱祁鈺(景泰帝)を即位させ、英宗を太上皇として人心の動揺を収めた。また、王振糾弾の声が高まり、王振の財産は没収され、王振の甥であった王山は凌遅刑に処せられた。 同年10月、オイラト軍は英宗を人質としたまま北京を攻撃した。明側には南京への遷都を主張する者たちと、北京を守って戦おうという主張する者たちとの意見の対立があったが、主戦派は于謙を中心に住民の協力を得て北京を防衛することに成功した。結局エセンは英宗を連れて北方に撤退した。 明の朝廷は、トクトア・ブハ・ハーンらエセン以外のモンゴル高原の有力者と接触して朝貢貿易を部分的に復活させ、和平交渉が膠着していたエセンが孤立することを画策した。孤立化を恐れたエセンは1450年(景泰元年)、英宗を無条件で釈放して帰国させた。
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