北京遷都と大寧割譲
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洪武年間、明の北方防衛は、(朱棣や朱権のような)辺王たちに多くを負っていた。靖難の変の後、永楽帝はその辺王たちを内地に移したが、その結果、華北の守りが手薄になった。唐朝の「守外虚内」、宋朝の「守内虚外」の教訓があったことを鑑みても、金陵(南京)を首都にして、遠方に置いた将領に辺境の守りを任せるというのは危険だった。「天子守国門」は問題を解決できる。また、南京では建文帝に従っていた勢力の影響が大きい(建文帝の遺臣は永楽帝の統治に不満を抱いていた)という別の問題もあった。政治的に判断すれば、朱棣の大本営であった北平は京師(首都)に適していた。また、もともとのモンゴルの軍事的な脅威も無視できない問題だった。これらを考慮した結果、永楽帝は北京遷都を決定した。 永楽元年(1403年)冬二月、朱棣は北平を北京と改め、順天府と命名した。その後、各地の富民を北京へと移した。北京は行在と称した。永楽年間、北京への遷都事業は継続された。北京城が建てられ、宮殿が建てられ、運河を通して交通が整備された。永楽18年(1420年)になって、北京皇宫と北京城が完成し、ついに遷都が宣言され、以後、南京は「留都」となった。これ以後、1928年から1949年まで国民政府が南京を首都とした以外は、北京が中国の首都となり、政治の中心は北へと移った。 朱棣は靖難の初期に大寧衛の全軍(朶顔三衛を含む)を麾下に納めていた。朶顔三衛はその後の作戦に重要な働きをなした。そこで朱棣は即位後に、寧王を南昌に封じ、永楽元年3月には大寧衛を朶顔三衛の功績への褒賞として与えた。 大寧衛は遼・蒙・冀、つまり現在の遼寧省・内モンゴル自治区・河北省の交点にあたり、遼東鎮~薊州鎮~宣府鎮と弓形に連なる地域の中心で、軍事的には相当に重要だった。洪武13年(1380年)に回復され、衛所が設立されていたが、ここで廃止された。大寧衛は遼東鎮・薊州鎮・宣府鎮などを防衛するための前哨拠点であり影響は大きかった。大寧衛の喪失により、関内から遼東に行くには、山海関を通って錦州に行くしかなくなった。この後、(特に、土木の変の後)、薊州・遼東での戦いは絶たなかった。正統年間の土木の変と嘉靖年間の庚戌の変ではモンゴル人勢力が大寧から侵攻してきた。それがゆえに大寧の割譲は、後世からは否定的な評価がなされることが多かった。
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