北京遷都と大寧割譲とは? わかりやすく解説

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北京遷都と大寧割譲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:54 UTC 版)

靖難の変」の記事における「北京遷都と大寧割譲」の解説

洪武年間、明の北方防衛は、(朱棣朱権のような)辺王たちに多く負っていた。靖難の変の後、永楽帝その辺王たちを内地移したが、その結果華北守り手薄になった唐朝の「守外虚内」、宋朝の「守内虚外」の教訓があったことを鑑みても、金陵南京)を首都にして、遠方置いた将領辺境守り任せるというのは危険だった。「天子守国門」は問題解決できるまた、南京では建文帝に従っていた勢力影響大きい(建文帝遺臣永楽帝統治に不満を抱いていた)という別の問題もあった。政治的に判断すれば朱棣大本営であった北平京師首都)に適していた。また、もともとのモンゴルの軍事的な脅威無視できない問題だった。これらを考慮した結果永楽帝北京遷都決定した永楽元年1403年)冬二月朱棣北平北京改め順天府命名したその後各地富民北京へと移した北京行在称した永楽年間北京への遷都事業継続された。北京城建てられ宮殿建てられ運河通して交通整備された。永楽18年1420年になって北京皇宫と北京城完成し、ついに遷都宣言され以後南京は「留都」となった。これ以後1928年から1949年まで国民政府南京首都とした以外は、北京中国の首都となり、政治の中心北へ移った朱棣靖難初期大寧衛の全軍(朶顔三衛を含む)を麾下納めていた。朶顔三衛はその後の作戦重要な働きをなした。そこで朱棣即位後に、寧王を南昌封じ永楽元年3月には大寧衛を朶顔三衛の功績への褒賞として与えた大寧衛は遼・蒙・冀、つまり現在の遼寧省内モンゴル自治区河北省交点にあたり遼東鎮~薊州鎮~宣府鎮と弓形連なる地域中心で、軍事的には相当に重要だった洪武13年1380年)に回復され衛所設立されていたが、ここで廃止された。大寧衛は遼東鎮・薊州鎮・宣府鎮などを防衛するための前哨拠点であり影響大きかった大寧衛の喪失により、関内から遼東に行くには、山海関通って錦州に行くしかなくなったこの後、(特に、土木の変の後)薊州遼東での戦いは絶たなかった。正統年間土木の変嘉靖年間庚戌の変ではモンゴル人勢力大寧から侵攻してきた。それがゆえに大寧割譲は、後世からは否定的な評価なされることが多かった

※この「北京遷都と大寧割譲」の解説は、「靖難の変」の解説の一部です。
「北京遷都と大寧割譲」を含む「靖難の変」の記事については、「靖難の変」の概要を参照ください。

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