古谷は懲役10年に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 13:57 UTC 版)
「古谷惣吉連続殺人事件」の記事における「古谷は懲役10年に」の解説
一方で坂本の自供に加え、事件現場に遺留された指紋などから、古谷が事件に関与していたことが確認された。これは、かつて古谷が福岡市内で、警官になりすまして窃盗を働いて逮捕された際、古谷を逮捕した捜査員が、古谷のことを思い出し、所在を探していたためである。しかし、古谷は警察の捜査を掻い潜って逃亡を続けた。 事件後、古谷は長距離トラックに同乗し、関門トンネルの非常線を抜け、下関市内でサーカスの団員となって山口県内を転々とした。さらに神戸へ行き、逮捕されるまで1、2か月周期で関西と九州を往復しつつ、ピストル強盗などを重ねた。 そして同年12月19日、古谷は西宮市内の民家の郵便受けに「明日までに現金50,000円を用意しろ」と書いた脅迫状を入れ、この民家の住民から金品を脅し取ろうとした。しかし翌20日、現金の受け渡し場所として指定した場所で、張り込んでいた兵庫県警の捜査員によって取り押さえられ、恐喝未遂罪で、西宮市警察に検挙された。この時、古谷は「清水正雄」の偽名を用い、取り調べに対しても容疑を否認していたが、筆跡鑑定により犯行が証明された。その後、西宮市警が国家地方警察(国警)本部に指紋照会を依頼したところ、「清水」の正体は古谷惣吉(当時38歳:前科6犯)であることも判明した。その後も古谷は、「2、3日前に知り合った『山口』という人物と共謀して脅迫状を郵便受けに入れたが、脅迫状は主犯の『山口』が書いた」と主張したが、各種証拠から「『山口』は架空の人物で、事件は古谷の単独犯である」として起訴された。古谷は犯行を否認し続けたことで、裁判官の心証を悪くし、1952年(昭和27年)2月1日、神戸地方裁判所尼崎支部で懲役3年に処され、刑務所に服役した。しかし、この事件について兵庫県警は「古谷はあえて刑務所に入ることで、強盗殺人の余罪を追及されることを免れようとした」とみなしている。この件に関しては、福岡刑務所にいた1954年(昭和29年)5月1日付で刑期満了を迎えている。 古谷は在監1年目の暮れ、知人に手紙を出したが、1951年の強盗殺人を捜査していた福岡市警がこれを把握。このため、古谷は神戸刑務所から福岡市警へ移監され、福岡刑務所在監中の1954年4月16日、強盗殺人容疑で逮捕された。この時、福岡署の留置場に勾留された古谷は、1941年に盗みで自身を逮捕した鹿子生と再会したが、鹿子生は「古谷は死刑か無期懲役になるだろう」と考え、古谷に好きな果実などを頻繁に差し入れていた。 しかし、古谷は逮捕直後に同房者から、坂本が既に死刑に処されていることを聞かされたため、坂本に罪を押し付けることを思いつき、取り調べに対しては徹底的に犯行を否認。坂本が「殺害実行犯は古谷」と主張していた八幡市の事件については、「自分は逃げた」と供述した。また、古谷の犯行を証明する証拠も不十分で、最大の証人となり得た坂本も既に死刑を執行されていたため、一連の犯行で古谷がどのような役割を果たしたかは解明されなかった。梅田は、「古谷も強盗に入った以上、『相手の出方次第では殺す』という意思を有しており、刑事責任は坂本と同等である」という旨を主張し、古谷の国選弁護人を担当していた高良一男も、古谷の主張を聞いて「古谷は坂本の従犯ではなく、刑事責任は同等ではないか?」という疑念を抱いていた。福岡地検の検事16人が、古谷への求刑を行うにあたり、合議を行ったところ、「死刑を求刑すべき」という意見が圧倒的だったが、全員一致ではなかった(死刑は全員一致でないと求刑できなかった)ため、やむを得ず無期懲役を求刑することとなった。 福岡地裁第3刑事部(佐藤秀裁判長)は、11回の公判(審理期間は約1年)を経て、1955年(昭和30年)6月16日、古谷に懲役10年(求刑:無期懲役)の判決を言い渡した。同地裁は、古谷と坂本の交友関係から、古谷の無罪主張を退け、福岡市の事件については坂本との共謀を認定し、強盗殺人罪を適用したが、両事件で「主犯」とされた坂本が既に死刑を執行されていたため、古谷関与の確証が得られなかった八幡市の事件については、「疑わしきは罰せず」の鉄則から、窃盗罪を認定した。その後、同判決は1956年(昭和31年)3月4日に確定した。 古谷は同事件について、後に105号事件で逮捕されて取り調べを受けた際に「主犯は自分で、坂本は見ていただけだ」と告白した。その上で、被害者2人を絞殺した手段も105号事件と同一である旨を述べたほか、「捜査機関や裁判所のミスを公表してやる。新聞記者に面会させろ」とも要求した。しかし、坂本本人は既に死亡しており、彼の裁判記録も(1953年の死刑執行から)10年後に廃棄されていた。当時の主任検事(佐藤貫一)もこの件について、記者会見を認めなかったため、再捜査はされなかった。
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