古谷の生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 13:57 UTC 版)
「古谷惣吉連続殺人事件」の記事における「古谷の生い立ち」の解説
志多留集落は対馬島・上島の北西部に位置し、惣吉の父親は農業と旅館業を兼業していた。実家は比較的裕福だったが、4歳のころに母親が病死。その直後、父親は再婚したが、惣吉は賭博に凝って家庭を顧みない父親と、なさぬ仲の自身に辛く当たる継母の下で、いびつな幼年期を過ごした。 惣吉が5歳の時、父は後妻(惣吉らの継母)と惣吉ら子供5人を家に残したまま、材木商として朝鮮に渡ってしまい、一家離散の運命となった。結局、父は1年近く経っても対馬に帰らず、後妻(継母)も惣吉たちを捨てて家を出てしまい、惣吉は伯父に引き取られたが、小学校へも思うようにやってもらえず、近所の子守などをさせられることが多かった。これに加え、極めて反抗的な幼少期からの性向が災いして、伯父の家族とは折り合いが悪く、叱責されると家出して野宿したり、腹いせに納屋に放火したりして、自らその行状を粗暴と荒廃へエスカレートしていったため、いわゆる問題児として周囲からも疎んじられるようになった。当時、惣吉は伯父の家に寄り付かず、神社や寺の境内で寝ていることがあった。 10歳くらいのころ、惣吉は父を慕って1人で朝鮮へ渡り、父と一緒に住むようになったが、2度目の継母との仲もうまくいかず、2年ほどして父に無断で対馬へ戻り、本籍地(志多留)で祖父母に1年足らず身を寄せた。小学校を卒業した後、対馬を離れた惣吉は、広島県広島市の叔母の家に引き取られ、中学校に入学したが、2年生の時にカッとなって教師を殴り、退学した。その後、父が朝鮮から帰ってくると、惣吉は一緒に対馬の厳原町へ移り、父とその3人目の後妻の下でようやく小学校を続けることになったが、ついに家庭環境には恵まれず、15歳くらいのころに黙って家を出た。なお、惣吉の父親は1964年(昭和39年)2月4日、91歳で死去している。
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