十景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 08:25 UTC 版)
間浦古郭 家島本島の城山の城郭跡。眼下の真浦港から遠く瀬戸内海までの眺め。 天満霊樹 家島本島の天神鼻に鎮座する名神大社家島神社の社叢。平安時代の延喜元年(901年)、菅原道真が太宰府に左遷される途中に立ち寄ったと伝わる。 監館眺望 家島本島の清水公園の最上段にあった監館からの眺め。監館とは江戸幕府が寛永16年(1639年)に設置した番所の館のことである。 白髭霊嗣 家島本島の宮浦神社。 宮浦夜泊 家島本島の宮港。舟で一夜を過ごしたときの風情が詠まれた。 赤坂清水・櫻谷雪景 家島本島の宮破風の櫻谷。当地の湧水と雪景色を漢詩の題材とした。 観音崎月 家島本島南端の観音崎にかかる月を詠んだ。 坊勢寺跡 坊勢島の坊勢寺跡。奈座港と山頂の恵美酒神社を望める。 淡賀楯崎 男鹿島の淡賀楯崎。 松島野馬 松島。
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十景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 12:57 UTC 版)
以下、2007年4月30日付中国新聞の記事を主に参照し記載する。 爆心地からの距離(m)詳細広島護国神社の鳥居上の額 100(当時) 上空からほぼ鉛直方向に爆風を受け、爆心地側の南側の額は残ったが、北側の額は吹き飛ばされた。その後広島市民球場建設に伴い移転、鳥居と額は広島城東側の裏御門近く中国放送本社ビルの南側で現存している。 現在の旧護国神社鳥居 元安橋の欄干および南北に開いた石製灯籠 130 落橋には耐えたが、点灯装置が納められていた中柱の笠石は爆風の方向である左右相反方向にずれ、欄干は元安川に落下、熱線で路面がはく離した。この状況から爆心地特定の手がかりとなった。橋自体は1992年に架けかえられたが、被爆親柱および中柱は再利用され現存している。 メディアを再生する 被爆後の元安橋 山陽記念館屋根瓦 420 建物内部は全焼に近かったが、西側に隣接した堅牢な日本銀行広島支店の陰となった部分は、瓦が特異な変形で残った。1995年、被爆樹木と門および手すりの一部を残して改装、頼山陽史跡資料館として再開館した。 メディアを再生する 被爆後の山陽記念館 国泰寺の煉瓦をはさんだ墓石 450(当時) 爆風で飛び込んできた赤煉瓦が、奇跡的に墓石と台石の間に挟まって傾いたまま残った。煉瓦はその後に盗まれたため、別のかけらをコンクリートを付けて展示していた。1978年国泰寺は己斐に移転。ちなみに旧敷地は中町のANAクラウンプラザホテル広島が建っている。 メディアを再生する 被爆後の墓石 広島市役所3階の布片 1,000 南棟の中央階段3階から4階に上がるガラス窓の上部あった防空暗幕。庁舎の窓ガラスが飛び内部は全焼、庁内にいた職員が消火にあたりこれが焼け残った。 被爆後の市役所 広島市役所煙突の亀裂 1,000 爆風でひび割れた、南棟に沿ってたつ高さ45mの煙突。1961年以降の大改修に伴い現存せず。 住吉神社欄干 1,400 参道にかかる小さな橋欄干の親柱が爆風により四方へ傾いた。ちなみにすぐ近くにかかる住吉橋は被爆翌月の9月枕崎台風により落橋した。その後1952年に社殿を再建。1996年に現在の社殿に建て替えられた。 現在の住吉神社 御幸橋の倒れた欄干 1,820 爆心地方面の上流側欄干は歩道に倒れ、下流側は川に転落した。1950年代初期までそのままの状況だった。1980年代から架替工事を行い、1990年に現橋竣工。西詰めに親柱と欄干の一部が現存している。 現在の御幸橋親柱 瓦斯会社ガスタンクの陰影 2,000 京橋川沿いの皆実町の広島瓦斯工場のガスホルダー。熱線で表面のコールタールが溶け階段やバルブホイールの影が残った。 広島ガスのガスタンクの陰影 三篠本町の竹藪 ? 熱線により爆心地側表面がちょうど半分変色した。
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