十月劇場発足まで
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1973年の高校卒業後、仙台市に友人たちが開始していた共同生活体「雀の森」に参加する。のちに仙台市緑が丘の共同生活「サザンハウス」を創設する。劇団は高校時代の「演劇場座敷童子」を引き継ぐ形で、仙台で活動した。 1973年12月に国際ユネスコ会館3階で第3作目「治療」公演。これが有料チケットを販売する実質的な劇団公演の最初となる。 1975年1月、メンバーが入れ替わり劇団名を「ラジカルシアター座敷童子」と改称する。翌年、劇団名を「洪洋社」に再変更した。同年仙台市向山に約5坪の稽古場を作り、7本目の戯曲「失われた都市の伝説・廃都伝序」では、テアトル・デ・ムール(風俗劇場)と名付け、公演会場とした。8本目の「愛情劇場・白痴の青春十字路篇」は仙台定禅寺通にある演劇工房アトリエで公演。この公演では、楽屋から便所に行けない構造だったため、尿を我慢して急性膀胱炎を起こし、終演後に倒れて病院に担ぎ込まれる一幕もあった。同年から劇団が『宮城県芸術年鑑』に掲載されるようになる。 1977年に執筆した3本の戯曲は団員の合意を得られず、上演に至らなかった。劇団としての統制が取れない状態で、1978年6月の宮城県沖地震に見舞われ、稽古場を閉鎖して劇団も解散した。食品会社に勤務し、以後3年間は演劇から離れる。 1980年に「洪洋社」の元団員が参加する劇団「IQ150」が仙台市で旗揚げして人気となり、石川も刺激を受けた。
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