十月劇場時代
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1981年10月、元洪洋社を中心とした10人のメンバーと 「十月劇場」を立ち上げる。泉市(現・泉区)にあった[要出典]勤務先の倉庫2階が稽古場だった。芝居を趣味と位置付け、年1回の公演ペースを想定する。十月劇場としては最初となる、12本目の「流星」を公演する。ペンネームを石川邑人に変更する。 1983年に「東北演劇祭」(八戸市)に参加し、国内の他の参加劇団や演劇評論家と交流を持つようになる。1984年の盛岡市での第2回にも参加した(「嘆きのセイレーン・人魚綺譚」を上演)。同年冬に本町にあるビル4階にアトリエ劇場を開設した。 1985年に執筆した「翔人綺想」からペンネームを石川裕人に変更する。石川は2010年のブログで「(変更の)理由は今では思い出せないが、やっと自分の作品に自信を持ったのかもしれない」と述べている。 1986年の「水都眩想」では、「風の旅団」からテントを借りて仙台市、盛岡市、八戸市、山形県寒河江市と各地で公演をおこない、石川によると読売新聞にも取り上げられたという。演劇評論家の衛紀生が本作を評価し、演劇雑誌向けに改訂して岸田國士戯曲賞にノミネートすることを持ちかけたが、石川は当時「書き終えたものはそこで終わる」という考えを持っていたため、応じなかった。1987年に自前のテントを持ったものの、制作費150万円は劇団では支払えず、団員からの借金でまかなったという(後に返済)。 1988年に公演した「又三郎」からワードプロセッサを執筆に使用するようになり、書く速度が上がる。「又三郎」は、東北ばかりではなく東京都や新潟市・名古屋市・京都市にまで及ぶ2か月半の長期公演となった。1989年には初めて年間6本の作品を執筆した。同年、劇団の女優と結婚した。 1990年の「斎理夜想」の後に、十月劇場の活動を休止する。石川は後に「疲れたのだ」と記している。次の「あでいいんざらいふ」は石川裕人事務所としての公演となったが、1991年の「絆の都」(三部作「時の葦舟 The Reedoship Saga」第1巻)で活動を再開した。 1992年、稽古場を仙台市定禅寺から仙台市市河原町に移す(前の稽古場の家賃滞納が主因)。1993年に上演した「無窮のアリア」(三部作「時の葦舟 The Reedoship Saga」第2巻)では、稽古入りから打ち上げまでの5ヶ月を河北新報に「芝居ができる 十月劇場の5ヵ月 演劇という『非日常』を抱えた生活者たち」のタイトルで23回にわたって連載した。 しかし、1994年に劇団の発展的解散を宣言した。
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