十月劇場時代とは? わかりやすく解説

十月劇場時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:42 UTC 版)

石川裕人」の記事における「十月劇場時代」の解説

1981年10月、元洪洋社を中心とした10人のメンバーと 「十月劇場」を立ち上げる泉市(現・泉区にあった[要出典]勤務先倉庫2階稽古場だった。芝居趣味位置付け、年1回公演ペース想定する十月劇場として最初となる、12本目の「流星」を公演するペンネーム石川邑人に変更する1983年に「東北演劇祭」(八戸市)に参加し国内の他の参加劇団演劇評論家交流を持つようになる1984年盛岡市での第2回にも参加した(「嘆きセイレーン人魚綺譚」を上演)。同年冬に本町にあるビル4階アトリエ劇場開設した1985年執筆した「翔人綺想」からペンネーム石川裕人変更する石川2010年ブログで「(変更の)理由は今では思い出せないが、やっと自分作品自信持ったのかもしれない」と述べている。 1986年の「水都眩想」では、「風の旅団」からテント借りて仙台市盛岡市八戸市山形県寒河江市各地公演おこない石川によると読売新聞にも取り上げられたという。演劇評論家の衛紀生が本作評価し演劇雑誌向けに改訂して岸田國士戯曲賞ノミネートすることを持ちかけたが、石川当時書き終えたものはそこで終わる」という考え持っていたため、応じなかった。1987年自前テント持ったものの、制作費150万円劇団では支払えず、団員からの借金でまかなったという(後に返済)。 1988年公演した「又三郎」からワードプロセッサ執筆使用するようになり、書く速度上がる。「又三郎」は、東北ばかりではなく東京都新潟市名古屋市京都市にまで及ぶ2か月半の長期公演となった1989年には初め年間6本の作品執筆した同年劇団女優結婚した1990年の「斎理夜想」の後に、十月劇場活動休止する石川は後に「疲れたのだ」と記している。次のあでいいんざらいふ」は石川裕人事務所としての公演となったが、1991年の「絆の都」(三部作時の葦舟 The Reedoship Saga第1巻)で活動再開した1992年稽古場仙台市定禅寺から仙台市市河原町に移す(前の稽古場家賃滞納主因)。1993年上演した無窮アリア」(三部作時の葦舟 The Reedoship Saga第2巻)では、稽古入りから打ち上げまでの5ヶ月河北新報に「芝居ができる 十月劇場の5ヵ月 演劇という『非日常』を抱えた生活者たち」のタイトル23回にわたって連載した。 しかし、1994年劇団発展的解散宣言した

※この「十月劇場時代」の解説は、「石川裕人」の解説の一部です。
「十月劇場時代」を含む「石川裕人」の記事については、「石川裕人」の概要を参照ください。

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