創刊の具体化
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関東大震災後の都市復興の中、横光利一は「新時代の道徳と美の建設」に取りかかるため、都市に現われた様々な物を題材とした作品に着手し、川端康成も「新進作家は老眼鏡を掛けて月を見る消極的視力者でなく、望遠鏡の発明者でなければならぬ」として、「若い娘の踊」のような力を持つ新しい文芸の創造を模索していた。 既成の文芸を刷新しようとする川端の意気込みは、既成作家らからは「既成文壇破壊運動の勇士」とからかわれ、「文藝春秋意識」「新思潮意識」あるいは「所謂ブルジョア文壇意識」とプロレタリア陣営からも罵られた。そうした中、大震災復興後の1924年(大正13年)6月、廃刊となっていたプロレタリア陣営の『種蒔く人』から引き継がれた『文藝戦線』が新たに創刊された。 それが起爆剤にもなって『文藝春秋』の若手同人内から、自分たち新人だけの雑誌を持ちたいという雰囲気が出てきた。7月頃に菅忠雄と今東光と石濱金作の3人が護国寺あたりを歩いている時に、自分たちも「新しい雑誌を出そうじゃないか」という話が出て、その発案に呼応した川端、横光、片岡鉄兵らを交えて新しい同人雑誌の創刊が具体化されていった。東光は「若い者の力を集めて、既成文壇を打倒するんだ」と主張した。 菊池寛の『文藝春秋』は随筆中心の雑文雑誌でもあったため、小説家志望の若い新人作家には物足りない面があった。菊池が『文藝春秋』を創刊した頃、28頁程度の薄い雑誌なら出してもよい、という菊池の意中を東光から伝え聞いていた川端は、すぐに東光と二人で菊池の家に下相談を承りに行っていたこともあった。 新たな文芸同人雑誌を若手だけで創刊する意義は、すでに新進作家としてある程度認められている新人たちが、より一層の自分たちの存在感を示すため団結することであった。川端の世代は、二葉亭四迷の時代の「文学は男子一生の仕事にあらず」といった考え方はなく、作家というものに対する一般社会からの引け目や、文学の無力感に囚われることもなかった。むしろ文学こそが世界を良い方向に導くものだという自負があった彼らは、作家が「団結」すること必要だと考えていた。 「文藝時代」は無名作家が文壇に出るための同人雑誌ではなかつた。その意味の同人雑誌を一先づ卒業した者の集まりであつた。(中略)既に新進作家として認められてゐる新人群が、自分たちの存在を一層はつきりさせ、既成作家と戦つて、新文藝を打ち建てるための団結であつた。(中略)これらの同人の勧誘に私はよく役立つた。なぜなら、私は同人となる人たちことごとくと前から知り合つてゐたからである。 — 川端康成「あとがき」(『川端康成全集第9巻 母の初恋』) 同人集めは、文芸時評家として活躍していた川端が、顔の広さの利を生かして主導し、仲間らと話し合いながら、第6次『新思潮』『蜘蛛』『行路』『無名作家』などの同人誌から新人たちが勧誘された。片岡鉄兵は、当時のインターナショナリズムの動きなどから、人間が知らず知らずのうちに人類自滅の運命を辿っているという「人類の滅亡」説を提唱し、「インテリのマルクシズムに対する意識的な抵抗」を持っていた。 誌名は、当初『金剛』という案もあったが、集めた同人らの初顔合わせの席上で、川端が「『文藝時代』はどうだろう」と提案し、出席者全員の賛成で決まった。田端のソバ屋で開かれたその会で、当時『婦人公論』記者だった諏訪三郎が、「既成文壇を打倒」というスローガンは嫌だなと片岡に言うと、「ナニそれは一部の意見で、全員の意志じゃない」と説得したという。 発行する出版社は、当時西欧の前衛的な新文学を出版していた新進気鋭の金星堂に決まり、川端らが話を取り付けていた。金星堂は『父帰る』など菊池の著作も複数出版していて、社長の福岡益雄は菊池と知り合いでもあった。また、金星堂の編集部には、菊池の推挙により中河与一が勤務していた背景もあった。 既成作家の主要作品の原稿は大手出版の『中央公論』や『新潮』に行ってしまっていたため、新しい文芸出版社だった金星堂にも、新進作家による新雑誌創刊の話を機に、彼らに協力して「既成文壇打倒」の気運が生まれた。 『文藝春秋』傘下の新人による新雑誌の創刊について、金星堂の福岡は菊池から「構わぬ」と了解され、川端や横光も事前に菊池の承諾を得た。そして、1924年(大正13年)10月に川端、横光を両雄として、既成作家やプロレタリア系に対抗する新しい文芸同人誌『文藝時代』が創刊されることが決まった。
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