創刊と1950年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 17:43 UTC 版)
「ギャラクシー・サイエンス・フィクション」の記事における「創刊と1950年代」の解説
後に『ギャラクシー』初代編集長となるホレース・ゴールドは1940年代にスタンダード社で働いており、編集者として同社のSF雑誌『スタートリング・ストーリーズ』、『スリリング・ワンダー』、『キャプテン・フューチャー』に関わった。第二次大戦が勃発するとゴールドは編集者を辞めて陸軍に入隊した。1949年、ゴールドはかつての同僚ヴェラ・チェルッティ(Vera Cerutti)からある誘いを受けた。チェルッティはイタリアの出版社エディツィオーネ・モンディアーレ社のニューヨーク支社ワールド・エディションに勤務していたのだが、この会社はアメリカで"Fascination"(魅惑)という新雑誌の創刊を試みて手痛い損失を受け、それに代わる雑誌の企画を探していたのである。ゴールドは1949年秋に創刊されたダイジェスト・サイズ誌『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション(F&SF)』のことを知ってはいたが、シリアスなSF雑誌の市場にはまだ空きがあると感じていた。彼はF&SFに対抗して1語3セントという高原稿料のSF雑誌創刊を提案した。ワールド・エディション社はこれに同意し、ゴールドを編集長として雇用、創刊号の発行は1950年10月となった。 創刊号のために、ゴールドはアイザック・アシモフ、フリッツ・ライバー、シオドア・スタージョン、クリフォード・D・シマックら数人の有名作家の原稿を獲得した。『ギャラクシー』創刊号はゴールドによるエッセイ、アンソロジストのグロフ・コンクリンによる書評(これは1955年まで続いた)、ウィリー・レイによる科学コラムも収録した。 1951年の夏、ワールド・エディション社内の不和により『ギャラクシー』誌は廃刊となりかけたが、結局は出版者ロバート・M・グイン(Robert M. Guinn)に売却されて継続することとなった。グインの新しい会社はギャラクシー出版株式会社と名づけられ、1951年10月から刊行を引き継いだ。ゴールドは編集長として残ったが、ワールド・エディション社所属の編集スタッフを失った。代わりに加わったのがジェローム・ビクスビイ、アルジス・バドリス、シオドア・スタージョン、そしてスタージョンの妻イーヴリン・ペイジ(Evelyn Paige)であった。文学エージェントとして働いていたフレデリック・ポールも作家の手配という面でゴールドを助けた。 1950年代後半になると、SF雑誌ブームは過ぎ去って、各誌の売り上げは往年に比べると低迷した。販売者、仲介業者はSF雑誌を好まなくなった。ゴールドは、「サイエンス・フィクション」という言葉が消費者の購買意欲を削ぐとして誌名を『ギャラクシー・サイエンス・フィクション』から『ギャラクシー・マガジン』に変更した(1958年9月号)。『ギャラクシー』の発行部数は9万部で、当時のSF雑誌としては最高であった。しかしグインは経費削減を決定し、1959年にページ数を増やす代わりに発行を隔月刊に変えた。原稿料も1語3セント(場合によっては4セント)から1セント半に引き下げられた。これらの変更により『ギャラクシー』の経費は年間1万2千ドルも削減された。2年以内に売れ行きが8万部まで落ちたが、原稿料の経費も減っているため経営に支障はなかった。
※この「創刊と1950年代」の解説は、「ギャラクシー・サイエンス・フィクション」の解説の一部です。
「創刊と1950年代」を含む「ギャラクシー・サイエンス・フィクション」の記事については、「ギャラクシー・サイエンス・フィクション」の概要を参照ください。
- 創刊と1950年代のページへのリンク