創刊から休刊まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 02:59 UTC 版)
「コミックおきなわ」の記事における「創刊から休刊まで」の解説
元々本誌は作家陣のメンバーである新里堅進の作品集という形で刊行が予定されていたが、「みんなが描けるように雑誌にしては」という新里の提案により、漫画雑誌として制作することとなった。この時本誌の刊行のためにコミックおきなわ社が設立され、代表には初代編集長の須藤將史が勤めていた県内の印刷会社・丸正印刷の代表理事であった与那覇正俊が就任している。当初の編集方針は「ためになって、面白い」と定められていたが、第4号刊行時の売り上げが芳しくなかったため、須藤に代わって編集長の職を引き継いだ中江によって、編集方針を中・高校生向けに変更。作家も無名の若手を積極的に起用し、一時期は30人以上にまで増えた。この変更が読者に受け入れられ、発行部数が3000~5000部を記録するほどにまで人気が高まっていった。この頃、本誌の購入客の中には地元県民だけでなく、土産物として買っていく観光客もいた。 しかし売り上げの好調は長くは続かず、1989年4月発行の第24号より月刊から隔月刊へ変更。そして刊行3周年を迎えた1990年8月の第30号にて休刊。9年後の1999年には、休刊時の編集長だった島袋直子が、一回限りという形で『別冊コミックおきなわ 同窓会スペシャル』を出版。発売後にはロックバンドの人間椅子を招いたライブが開催された。だがそれ以降復刊することはなく、事実上の廃刊となった。島袋は休刊の原因について、売り上げの不振により利益が出なかったこと、主力となる連載作品を生み出せなかったことを挙げており、漫画家・編集者・経営者共に今後の雑誌の方向性を決めることができておらず、「漫画家のための本」になってしまったと振り返っている。
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