初犯と精神科への入院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:30 UTC 版)
1979年(昭和54年)2月、兵庫県立の工業高校(尼崎市内)に入学したが、1981年(昭和56年)3月に2年で中退したあと、定時制高校に編入学するもすぐ退学。数か月間のガソリンスタンドでのアルバイトを経て、1981年末、18歳のときに航空自衛隊に入隊したが、1983年(昭和58年)1月に1年強で除隊処分を受けている。除隊の理由について、鑑定書は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたと記述している。 除隊後、宅間は運送会社やトラック運転手、引越し業者など十数社にわたる転職を繰り返していたが、いずれも数週間から半年以内で退職している。精神的に荒れ、家族に暴力をふるったり、傷害、暴行などに走り、また高速道路を逆走するなど非行を行うようになった。またこの頃から、知り合いの女性を呼び出しては強引に肉体関係を結ぶことに耽溺するようになっていった。 1984年(昭和59年)11月21日、マンション管理会社に勤務していたときには家賃の集金と称して大阪市東淀川区の女性の部屋に上がり込み、顔面を数回殴りつけ、首を絞めるなどして強姦する事件を起こしている。 事件後、被害者の女性が警察に告訴したことを察知した宅間は、12月12日、母親をともない精神科を受診。「幻聴が聞こえる。だれかに陥れられる気がする」などと医師に言い、母親にも宅間に暴力を振るわれているとの旨の噓を言わせて入院した。病院側は、当初は不安神経症との診断を下したが、宅間の虚偽の供述を信じ、のちに「精神分裂病」と診断書や警察の照会への回答に記載している。一方、閉鎖病棟へ入れられ入院生活に不満を感じた宅間は、翌1985年(昭和60年)1月4日に5階屋上から隣接する車庫の屋上へ飛び降りて、開放性下顎骨及び上顎骨骨折の重傷を負い、その後遺症も残った。宅間は後に母親に宛てた手紙でも、入院したのは警察から強姦事件で追及されるのを回避するためで、5階から飛び降りたのは「親に嫌がらせをするため」であったと記している。退院後、宅間は「世間への復讐心」から、さらに犯罪性向を強め、通り魔的な傷害や器物損害などを日常的に繰り返すようになる。後に精神鑑定を担当した医師は、このことが社会や勝ち組へのルサンチマンを強めた可能性を指摘している。 初犯の強姦事件では結局、大阪地方検察庁が派遣した医師に「性格異常であって、理非分別能力はある」と診断され、1986年(昭和61年)11月に懲役3年の実刑判決が確定。1989年(平成元年)3月11日まで刑務所に服役したが、服役中には両親との面会や手紙で、病院から飛び降りて骨折したのは母親が退院に関して協力してくれなかったためであるとし、その責任を取って出所後の生活費を出すように要求した。だが父親は、宅間に全く反省が見られないことからこれを拒否し、宅間の私物を下取りに出した金を本人に手渡しして勘当することを伝えた。 また宅間は、刑務所出所後にダンプやトラックの運転手を務めていた際、二件の危険運転致死事故を起こしたと後の精神鑑定で証言している。山奥で産業廃棄物をダンプで運ぶ仕事をしていた時に、前の車に対して煽り運転をしたところ、下りカーブで急ブレーキを踏みスピンしたダンプが対向のトラックと衝突し、運転手が数日後に死亡した。この件では「相手の車が割って入って来た」と嘘をついて、それ以上捜査されることはなかった。また首都高速の付近でトラックの運転をしていた際に、乗用車に対して煽り運転を繰り返しているうちに相手の車が側壁に衝突し、運転手が死亡した。すぐにその場を去ったため、事件として露見することはなかったという。
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