冷泉家と古典籍
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「和歌の家」冷泉家は、藤原定家の孫・冷泉為相(ためすけ、1263年(弘長3年) - 1328年(嘉暦3年))を初代とし、藤原道長の流れをくむ公家の家系である。道長の6男・藤原長家を祖とする御子左家(みこひだりけ)は、勅撰和歌集の撰者であった藤原俊成・定家以来、和歌の家としての格式をもっていた。藤原定家の子でやはり勅撰和歌集の撰者であった藤原為家(1198年(建久9年) - 1275年(建治元年))の後、御子左家の家系は為家の嫡男為氏を祖とする二条家、為氏の弟・為教を祖とする京極家、為氏・為教の異母弟である為相を祖とする冷泉家の3家に分かれた。このうち二条家と京極家は中世に断絶し、俊成・定家の血統を伝えるのは冷泉家のみとなった。冷泉家の初代である為相は、藤原為家が60歳を過ぎてから、後妻の阿仏尼との間にもうけた子である。為家は、嫡男為氏に与えるはずであった所領や伝来の歌書などを為相に相続させている。これは、為家が幼い為相の行く末を案じたためであると言われている。こうして、御子左家所伝の典籍類は冷泉家に伝わることになった。なお、所領細川庄の所有権に関しては、冷泉家(阿仏尼、為相)と二条家(為氏)の間で長らく争論があり、最終的に為相が勝訴したのは正和2年(1313年)のことである。その後、応永23年(1416年)頃、3代為尹の3男持為が分家独立し、冷泉家は為尹の嫡男為之の系統の「上冷泉家」と持為の系統の「下冷泉家」に分かれた(以下、文中の「冷泉家」は「上冷泉家」を指す)。 冷泉家(上冷泉家)の屋敷は京都御苑の北、今出川通に南面し、東・北・西の三方は同志社大学の敷地に囲まれている(下冷泉家の屋敷は現・京都御苑内にあった)。この一帯は、豊臣秀吉の都市計画により公家屋敷が集中していた地域であったが、現存するのは冷泉家住宅のみである。冷泉家は慶長11年(1606年)にはこの地に屋敷を構えていたことが知られる。寛永5年(1628年)頃、冷泉家伝来の古書を収めていた土蔵「御文庫」(おぶんこ)は、勅封がされて武家伝奏と京都所司代の管理下におかれ、冷泉家の当主といえども勝手に出入りすることはできなくなってしまった。これは、当時の茶の湯の隆盛に伴い、和歌集などの古書を切断分割して茶会用の掛け物に仕立てることが流行していたため、貴重な典籍類が散逸するのを未然に防ぐ意味があった。封が解かれたのはようやく享保6年(1721年)のことである。この間、貞享2年(1685年)と同5年(1688年)頃、和歌に造詣の深かった霊元天皇は冷泉家から数百点の古典籍を宮中に運ばせ、公家らに命じて写しを作らせている。これらの写本は宮内庁書陵部に現存している。 天明8年(1788年)の京都の大火により、冷泉家の屋敷も焼失したが、「御文庫」は火災を免れて現存する。現存する冷泉家住宅(重要文化財)は寛政2年(1790年)に再建されたものである。近代に入って1917年(大正6年)には今出川通の拡幅工事に伴い曳家(ひきや、建物を解体せずに移動させること)が行われ、敷地も縮小したが、各建物の配置などは旧状をよくとどめている。 冷泉家の「御文庫」は屋敷内でも神聖な場所とされ、現在も当主と嫡男以外は立ち入ることが許されていない。そこに保存されてきた古文書・古写本類は、一部研究者にはその存在が知られていたが、長らく非公開とされ、一般にその存在が知られるようになったのは1980年(昭和55年)からである。同年より平安博物館(現京都文化博物館)によって冷泉家所蔵本の整理・目録作成が始められ、徐々にその全体像が明らかにされてきた。冷泉家所蔵本は、俊成・定家の自筆本や、定家の自筆日記『明月記』をはじめ、日本文学や日本中世史の研究上、貴重な資料の宝庫である。また、冷泉家住宅は近世以前の公家住宅の現存唯一の遺構として貴重なものである。こうした有形文化財に加え、歌会、乞巧奠(きっこうてん、七夕)のような昔ながらの年中行事や和歌の家としての伝統を保持するため、1981年(昭和56年)に財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立され、24代当主冷泉為任が初代理事長となった。財団名の「時雨亭」は、定家が京都の嵯峨に構えた山荘の名である。
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