冷泉天皇の奇行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:16 UTC 版)
皇太子時代から気の病ゆえの奇行が目立ったという。大江匡房が記した『江記』などには、 足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。 幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。 清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。 病気で床に伏していた時、大声で歌っていた。 退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌った。 などの「奇行」が記されている。当時の摂政だった藤原実頼と外戚関係を持たず、逆に有力な跡継ぎとされていた為平親王が伯父の源高明を舅とし、藤原氏を刺激した(安和の変の伏線となる)ことなどが、わずか2年で退位する原因となった。しかし普段は気の病を持つようには見えない、容姿端麗な人物だったともされる。その奇行のふるまいは、実は外戚の地位を奪取された藤原元方の祟りであるとも『大鏡』は伝えている。 譲位の後、冷泉院に11年の間住んだことから冷泉院と呼ばれ、上皇生活を42年過ごした後、東三条南院にて62歳で崩御。花山天皇をはじめとする皇子女や弟円融天皇、甥の一条天皇等多くの親族に先立たれた。
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