作者・年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/13 08:54 UTC 版)
跋文と本文によると、かつて南朝の廷臣であり、後醍醐天皇の崩御に際して出家・遁世した松翁(しょうおう)という人物が、正平13年(1358年)に自らの見聞を記したものという。しかし、説話中に元中元年/至徳元年(1384年)撰進の『新後拾遺和歌集』所収の和歌が含まれることから、成立はこれ以降の室町期に下るとみられ、また、作者松翁の正体に関しても、吉房朝臣(『新安手簡』所引「野山集」)・侍従忠房(貞享本の勘物)・兼好の弟子命松丸(『弊帚集』)など、諸説があってはっきりしない。 近年では、松翁に仮託して室町後期に偽作されたとする説が有力である。成立年代の下限は、『塵塚物語』との関係から、天文21年(1552年)と推定される。
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作者・年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 22:30 UTC 版)
作者については、概して不詳とされることが多かったが、内容に古文書を出典とするらしい記事が多いこと、また水戸彰考館浅羽本の中に南朝関係の著述が含まれることなどから、近年は黒川文庫本の奥書に見える書物奉行浅羽成儀説が最有力であるとされている。成立時期をめぐっては諸説あるものの、他文献との依拠関係から鑑みて、『白河結城文書』が世に出た正保初年(1645年)を上限とし、かつ『続本朝通鑑』が成った寛文10年(1670年)を下限とすることには異論がない。なお、『続本朝通鑑』は本書の成立について、散逸した「南方記」という書の断簡を拾いつつ、他書によって増補したものであるとの伝承を載せているが、その真偽は不詳である。
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作者・年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 17:36 UTC 版)
彰考館本『南朝記』には元和2年(1616年)の北畠親顕自筆本を写した旨の奥書があるが、これは疑わしい。実際の成立時期については、『桜雲記』との先後を巡る議論がある。すなわち、桜雲記先行説では、寛文10年(1670年)成立の『続本朝通鑑』の引用書目に本書がないことに加え、『桜雲記』に見えない記事で『通鑑』と一致するものが多いことなどから、上限をこの年として下限を元禄後期(1700年頃)とするが、南方紀伝先行説では、『通鑑』に比べて年紀の錯誤が多いこと、依拠史料や引用和歌の包含関係から、成立は寛文10年以前、さらには『桜雲記』に先行する可能性が高いとしている。近年、成立過程に関する新たな仮説が示され、それによれば、『太平記』の後を継ぐ形で巻三以降が先に成立し、さらに元弘の乱にまで範囲を広げて巻一が加筆されたものの、巻二は史料を整序し切れずに未定稿のまま終わったのではないかという。この見解に従った場合、現存の形での成立を見るまでに、複数の作者の手によって何段階かの追補・改訂を経た可能性も考慮する必要があろう。
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作者・年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/28 14:25 UTC 版)
写本は2種が伝存し、1つは英国図書館のBL MS Cotton Caligula A.IX、もう1つはオクスフォード大学のジーザス・コレッジのJesus College MS 29に属する。両方とも13世紀後半、おそらく1275年以降に成立したとされる。詩が書かれた年はヘンリー2世の死没の記述があることから1189年以後1216年までの間とする説が伝統的であるが、ヘンリー2世でなくヘンリー3世に関する言及であるとして1272年以後とする説もある。作者は議論があり、13世紀の詩人ギルドフォードのニコラス(w:Nicholas of Guildford)や教会に携わる僧が候補に挙げられている。
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作者・年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 02:03 UTC 版)
「天子巻」「摂関巻」「大臣巻」の巻末には尊円入道親王の筆と推定される奥書があり、それによると画ならびに人名注記は次による筆であると判明する。 画:藤原為信/注:世尊寺行尹 「天子巻」鳥羽院から後二条院までの18人 画:藤原豪信/注:奥書筆者(尊円か) 「天子巻」花園院・後醍醐院の2人と「摂関巻」「大臣巻」全部 為信や豪信は似絵の技能を代々継承した隆信派(祖は藤原隆信)に属する絵師であるが、それ故に家には人物を描いた粉本が大量に蓄積されていたと推定され、これらを集大成した作品である本図巻は似絵の中でも写本的な性格が強いものである。もっとも為信が早く没している(1316年以前)ことからして段階的に描き継ぎを経たと考えられ、全3巻の最終成立は貞和4年(1348年)から同6年(1350年)1月の間とみられている(後光厳院を描いた「別巻」はこれ以降の成立だが、その作者は不詳)。
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