作者・沿革
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『申楽談儀』に、「通盛・忠度・義経三番、修羅がかりにはよき能なり」とあり、この「義経」は本曲のことだと考えられている。また、同書では、「八島の能」について、「よし常の憂き世の」という表現が「規模」(眼目)だと評する記述がある。これらから、本曲が世阿弥の時代に成立していたことが確実であるが、構想・構成・引用典拠・詞章等の特徴から、世阿弥の作であると考えられている。 『糺河原勧進猿楽記』に寛正5年(1464年)上演の記録があるなど、古くから頻繁に上演されてきた。 観世流では、観世元章の明和改正謡本で「八島」を「屋島」と改め、以後これを踏襲している。
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作者・沿革
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世阿弥の芸談をまとめた『世子六十以後申楽談儀』には、「山姥、百万、これらは皆名誉の曲舞どもなり」、「実盛・山姥もそばへ行きたるところあり……当御前にてせられしなり」とあり、世阿弥自身が上演したことが分かる。そのほか、修辞や引用の特徴などから、世阿弥の作とする見解が一般的である。 特に典拠はなく、世阿弥のいう「作り能」と思われる。本作品が、「山姥」についての文献上の初見である。
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作者・沿革
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世阿弥の子・観世元能の著書『申楽談儀』には、「塩竈」の名で本曲が世阿弥の作品として紹介されている。世阿弥自身の著書『音曲口伝』でも本曲の一節がやはり「塩竈」の題で引用されており、作者が世阿弥であることは確実視されている。曲名は、元来「塩竈」と呼ばれていたようで、金春禅竹も「塩竈」と呼んでいるが、禅竹の孫・金春禅鳳は「とをる」と記しており、この頃には曲名が変わっていたようである。 『伊勢物語』や『古今和歌集』に記された融の河原院造営に関する説話をベースとしているものの、その依拠の部分は比較的小さい。本作の作品世界そのものは、作者である世阿弥の美意識に基づく創作と見なすべき、と能楽研究者の伊藤正義は指摘する 一方、世阿弥の父・観阿弥が、やはり融を題材としたと見られる「融の大臣の能」を舞ったという話が『申楽談儀』にある(曲自体はすでに散佚)。「融の大臣の能」と「融」の関係については、「全くの別曲」「『融の大臣の能』を改作したのが今の『融』」と、意見が分かれる。 前述の伊藤は、「融の大臣の能」は、『江談抄』などにある、「河原院に滞在する宇多法皇と御息所の前に融の亡霊が現われ、御息所を奪おうとするも失敗する」との説話を元にした能だったとし、融が御息所への邪恋を訴える場面の一部が、現「融」で前シテがかつての河原院を懐かしむ場面に引き継がれたのでは、と推測している。事実だとすれば、女性への恋慕が、邸宅への執心にスライドした形になる。
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