人民党と自治党の対立とは? わかりやすく解説

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人民党と自治党の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 03:20 UTC 版)

ダルマチア王国」の記事における「人民党と自治党の対立」の解説

1860年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世帝国憲法上・政治上のあり方更新する決定し拡張され帝国議会召集したクロアチア王国及びスラヴォニア王国の代表であるアンブローズ・ヴラニツァニとヨシプ・ユーライ・シュトラスマイエルは、クロアチア=スラヴォニア王国ダルマチア王国統一について疑問投げかけた。ダルマチアの代表であるフラーネ・ボレーリは、イタリア人確かにダルマチア少数派であると述べたが、イタリア人統一適切な時期であるとは信じていないとも述べた当時ダルマチアには2つ対立する政党存在した。ミホ・クライッチとミホヴィル・パヴリノヴィッチが率いクロアチア民族主義革新派である人民党と、アントニオ・バジャモンティとルイージ・ラペンノが率いイタリア民族主義保守派である自治党である。自治党は、ダルマチア総督ラザル・マムラ、ザダル市とスプリト市、他のいくつかの小さな都市地方自治体、そして統一成立した場合クロアチア=スラヴォニア王国ハンガリー王国、そしてオーストリア帝国全体弱体化することを恐れたウィーン裁判所によって支持されていた。一方で人民党は、スタリー・グラード、ヴルボスカ、メトコヴィチボルドゥブロヴニクコトル支持されていた。人民党政策要点は、ダルマチアクロアチアスラヴォニア統一と、行政教育におけるクロアチア語導入であった1860年ザグレブ開催されバン会議の招集の際に、ダルマチアの代表が統一について議論するため招待されたが、マムラに支持される自治党は、会議主導妨害したダルマチア国会1861年最初に召集されダルマチア人口の約20%占めに過ぎない大地主書記官裕福な市民の代表が大きな利点持っていた不公平な選挙制度影響もあり、自治党議席過半数占めた。こうして成立した国会ダルマチア王国クロアチア王国及びスラヴォニア王国との統一拒んだ1866年起こった普墺戦争に伴う第3次イタリア独立戦争ではヴィス島沖でリッサ海戦が行われ、オーストリアは両戦争での敗北によって未回収のイタリアを除く北イタリア喪失した。翌1867年アウスグライヒによってオーストリア=ハンガリー帝国成立すると、オーストリア帝冠領ハンガリー王冠領分裂強化されダルマチア王国クロアチア王国及びスラヴォニア王国統一遠ざかった。これを受けて野党である人民党ダルマチアクロアチア化するための政治・文化闘争再帰し、特に学校教育焦点当てて教育言語としてのクロアチア語導入求めた。この目的は、自治体管轄であった学校教育課程手を加えることで、自治体での支持獲得することであった1862年人民党イタリア語母語とする有権者支持獲得するために、イタリア語週刊誌Il Nazionale」を立ち上げた人民党は後にクロアチア語週刊誌「Narodni list」の発行開始した1869年、ミホヴィル・パヴリノヴィッチはクロアチア政治計画Hrvatska misao」を記しクロアチア独立権利ダルマチアを含むすべての歴史的なクロアチア領土」を含む統一立憲クロアチア国家設立提唱した1869年10月、クリヴォシイェ蜂起呼ばれる武装蜂起コトル湾後背地のクリヴォシイェで発生した。 この蜂起は、1866年普墺戦争におけるケーニヒグレーツの戦いでのオーストリア帝国対すプロイセン王国決定的な勝利によって、帝国政府伝統的に徴兵免除されていたクリヴォシイェの民衆強制徴兵課したことで発生した徴兵制によって水夫は海での労働奪われ、山に住んでいた人々武装解除によってヘルツェゴビナ大小の牛を狩る機会失った徴兵制が再び廃止され民衆武器保有許可されたのは、1870年1月11日和平協定締結されたときであった人民党自治党の間の緊張が高まるにつれて、ますます衝突激しくなっていった1869年7月31日水路学視察イタリア船で、イタリア船員クロアチアシベニク市民とが衝突し14人のイタリア人船員数人クロアチア人重傷負った。この衝突イタリア王国オーストリア・ハンガリー帝国の間の外交問題発展しモンツァンバーノ事件として知られている。この期間に人民党はより組織化されダルマチア後背地島嶼部徐々に勢力拡大1870年選挙では遂に国会議席過半数獲得した1873年2月15日、党はシベニクでの選挙勝利し、アンテ・シュプクが市長選出された。主要都市では初の勝利であった1882年には、自治党準軍事組織による脅迫暴力押しのけて人民党のガジョ・ブラトが自治党のアントニオ・バジャモンティを破りスプリト市長となったその後まもなく、人民党スタリー・グラードトロギルでも勝利し自治党ザダル以外の主要都市失った人民党躍進によって、1883年クロアチア語ダルマチア国会公用語となった同時にクロアチア語学校新設進んだ1866年にはクロアチア語教師学校クロアチア語: Hrvatska učiteljska škola )がザダルに近いアルバナシ開校され1883年時点で、クロアチア語教育を行う小学校は約300校、高校は3校(ドゥブロヴニクコトルスプリト)もの規模になっていた。さらに1898年には、クロアチア語ギムナジウムザダル開設された。

※この「人民党と自治党の対立」の解説は、「ダルマチア王国」の解説の一部です。
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