京都見廻組説
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見廻組隊士だった今井信郎は1869年(明治2年)に箱館戦争で降伏し、兵部省と刑部省によって取り調べを受けていた。この頃、坂本殺害について旧新選組隊士に取り調べが行われたが、いずれも新選組の関与を否定した。このうち大石鍬次郎が見廻組が実行犯であると自供したため、今井も取り調べを受け、自供することとなった。『勝海舟日記』明治2年4月15日条には松平勘太郎(松平信敏)に聞いた話として、今井が「佐々木唯三郎(只三郎)首トシテ」犯行に及んだことを自供したという記述がある。この中で勝海舟は指示したものは佐々木よりも上の人物、あるいは榎本対馬(榎本道章)か、わからないと記述している。 1870年(明治3年)9月2日、今井は禁固刑、静岡藩への引き渡しという判決を受けた。直接手を加えていないが龍馬殺害にかかわったこと、その後脱走して官軍に抵抗したことが罪状とされている。今井の証言をおさめた口上書は佐々木只三郎の指示により、佐々木、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼(早)之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人が近江屋に向かい、佐々木・渡辺・高橋・桂の4人が実行犯となって龍馬らを殺害したというものである。殺害の命令があった理由については、寺田屋事件の際に龍馬が同心二名を射殺したことをあげている。今井は京都見廻役小笠原長遠に命じられたとしているが、小笠原は一切関知していないとしている。 明治9年(1867年)には、西村兼文が著書『文明史略』において、龍馬らが「幕府ノ臣今井某等ノ為メにニ殺サル」と触れている。 明治33年(1900年)、今井は結城禮一郎の取材に応じ、その証言録が新聞に掲載されているが、結城が内容を飾り、誇張した形で掲載された。この証言では今井が実行犯となっている。以前の証言と異同が見られることについて菊地明は、今井が当初挙げた実行者は今井自身を除き全て鳥羽・伏見の戦いで戦死していることから、今井には渡辺篤や世良敏郎ら存命者をかばう意図があったのではないかと推測している。後に雑誌に転載されたものを見た谷干城は、中岡からの証言と異なっていることなどから今井の証言が偽物であり、「売名の手段に過ぎぬ」と度々発言している。このため当時は今井の証言が有力なものであるとは受け止められなかった。今井は明治42年に大阪新報の記者和田天華の取材に対し、「暗殺ではなく幕府の命令による職務であった」「犯人は新選組ではない」と回答している。 大正元年(1912年)、今井の口上書に沿った事件の概要が『維新土佐勤王史』に収録された。また大正15年(1926年)に刊行された『坂本龍馬関係文書』に今井の口上書が収録されている。編者の岩崎英重は「是にて万事は解決せり」と評している。 また、大正年間には元見廻組隊士の渡辺篤が残した証言が発表された。この記録は今井の告白が掲載される以前から作成されていたものをもととして、明治41年に身内に対しての記録として作成されたものである。渡辺は自身と佐々木、今井ら五、六名で殺害に及んだと記録している。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)がある。今井は渡辺吉太郎の鞘であると証言し、渡辺は世良敏郎のものであるとしている。この差異についても菊地明は今井が存命者に配慮したためであるとしている。 また大正12年(1923年)には、佐々木の兄で会津藩公用人であった手代木勝任(直右衛門)の養嗣子が『手代木直右衛門伝』を私家版で刊行した。この書では、手代木勝任が没する数日前に、「坂本を殺したるは実弟只三郎なり」と述べ、龍馬が薩長同盟と「土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたるをもって、深く幕府の嫌忌を買ひたり」として、「某諸侯の命」によって只三郎が3人で蛸薬師にて龍馬を殺害したとしている。同書内では「某諸侯」は京都所司代で容保の実弟でもあった桑名藩主松平定敬であったとしている。また磯田道史は松平容保を指すとしている。ただし当時の土佐藩が倒幕で一致していた事実はなく、今井の証言とも食い違う点が多い。 昭和13年(1938年)には佐々木只三郎の子孫の依頼により、高橋一雄が『佐々木只三郎伝』を私家版で刊行している。この本では龍馬が大政奉還を主導した為に幕臣に恨まれ、佐々木が渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大蔵、今井とともに龍馬を殺害し、手代木勝任が言い残した某諸侯は会津藩主の容保であったとしている。 京都霊山護国神社に併設されている霊山歴史館にはこの説に従った展示コーナーがあり、龍馬を斬ったとされる刀が展示されている。
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