事件の決着
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その後の3か月間、資朝らの取り調べの詳細は不明である。 年が明けた正中2年(1325年)1月13日ごろには、正中元年事件を契機に、後醍醐天皇と甥の皇太子邦良親王の政治抗争は表面化していた。このころ、両者はたびたび使者を鎌倉に送っていたので、世人に「競馬」と呼ばれていた、と花園上皇は批判している(『花園天皇日記』同日条裏書)。もっとも、花園が属する持明院統の後伏見上皇も、政争に勝利するために使者を走らせていた。 閏1月7日、花園上皇は幕府の仮決定を知った(『花園天皇日記』同日条)。それによれば、「1. 資朝・俊基の討幕計画は完全な冤罪である。2. 資朝は(討幕計画に関しては冤罪だが)佐渡国に配流する。 3. 俊基は無罪。 4. 祐雅は追放」という内容だったという。花園は、資朝が冤罪なのに佐渡への流刑という不可解な決定に、不審であると驚いている。『花園天皇日記』同日条裏書によれば、長崎円喜(高綱とも。嫡子の内管領長崎高資と共に、当時の幕府の事実上の最高権力者)も、この裁定に不審と驚いたらしい。円喜は、「資朝の書状」なるものにまだ疑惑があるのに、冤罪判決が下りそうなのは、資朝が恐怖したので情状酌量があったからだろうか、と密かに談じていたという。この時点では、幕府首脳部の多数意見は資朝冤罪だったと見られる。 2月9日、幕府は正式な結論を朝廷に報告した(『花園天皇日記』同日条)。資朝に関しては、完全な冤罪という仮決定から覆り、「以前からたびたび不義暴虐のことがあったので、疑わしいことが全くない訳でもない」という曖昧な結論が下され、有罪とは言えないが無罪とも言えないので、佐渡流刑ということになった(もっとも、前記したように、冤罪だとしても佐渡流刑は決まっていた)。俊基は、資朝に通じたという噂もあるが、証拠不十分であるとされ、放免された。このことについて、花園は「禁裏、此の趣、殊に隠密せられると云々」と書いている。 河内の解釈によれば、幕府首脳部多数派の意見に反して、資朝だけでも有罪にしたいという円喜個人の意向が強く働き、裁定が覆ったのではないか、という。「隠密」というのは、事件をうやむやにしたい幕府側から、資朝一人を犠牲にすることで手打ちとしないかともちかけられ、後醍醐の側もやむを得ずそれを呑んだのではないかという。こうして、真の黒幕が誰なのか真相は解明されないまま、疑惑に蓋をする形で正中元年事件は幕を閉じた。
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事件の決着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:55 UTC 版)
同年5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、「教育基本法と学校教育法を遵守する」「私立学校の自主性の範囲の中で朝鮮人独自の教育を認め、朝鮮人学校を私立学校として認可する」との覚書が交わされた。
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事件の決着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 01:57 UTC 版)
摘発があった翌3年(1806年)の8月、幕府側は、彼らは「異宗信仰者」であって「切支丹」ではなく、「宗門心得違い」であると認定した。最終的に、被疑者に対して、改めて踏み絵をさせた上で「異宗」回心の誓約に押印させることで赦免した。この措置は、「事件の拡大回避」や「反発による一揆への警戒」「対応遅延の隠蔽」、または当時の奇怪な魔力を持つ怪しげなイメージになっていたキリシタン像と体制に従順な潜伏キリシタンたちの姿が乖離していたことから、彼らの信仰を幕藩制国家の異端としてのキリシタンではなく幕藩制秩序を従来通り維持するために「異宗」として位置づけたことなどが理由とされる。 事件後、「異宗」を改宗して許された者は「異宗回心者」と呼ばれた。彼らの中には、明治時代に教会の指導のもとにキリスト教徒になった者も少なくなかった。
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