九州鉄道社長就任
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1933年(昭和8年)に入ると、東邦電力と名古屋市当局の間に紛争が発生した。前身の名古屋電灯時代から市との間に存在する報償契約が満期を迎えるにあたり、報償契約にある条項を適用して市が市内電気事業の市営化を目指したことで発生したものである。市営化は結局実現しなかったが、その間に関西駐在常務として進藤が市との交渉にあたるも経過が思わしくないとして1933年(昭和8年)2月の異動で外され(専務の海東要造が交渉担当となる)、進藤は常務兼関連部長となった。この「関連部」は東邦電力傘下企業との事務的連絡をとるための部署である。次いで同年6月、福岡県の鉄道会社九州鉄道株式会社の社長に就任した。以後1936年(昭和11年)までは東邦電力常務との兼任である。 九州鉄道というのは、福岡市外へ鉄道を建設すべく、伊丹弥太郎や松永安左エ門ら旧九州電灯鉄道関係者が1915年(大正4年)に設立していた鉄道会社である。1922年(大正11年)の増資に際して東邦電力が主要株主となっていた。1924年(大正13年)、現在の西鉄天神大牟田線の一部にあたる福岡から久留米までの区間を開通させ九州鉄道は開業する。開業後、1920年代を通じて旅客数は増加を続け、会社では年率6%の配当を実施していたが、1930年(昭和5年)より営業成績が悪化し始め、翌年には無配に転落した。無配を継続する最中の1933年6月、前任者海東要造にかわって進藤はこの九州鉄道の社長となった。経営再建に進藤が呼び出されたのは、松永によると東邦電力の社員中で最も「戦闘力」があるためという。 九州鉄道は早くから久留米からさらに南下して福岡県南部の大牟田市へと路線を延伸する構想を持っており、1927年(昭和2年)には大牟田までの鉄道敷設免許を保有していた大川鉄道を傘下に収めていた。大牟田方面への延伸を実現するため久留米から大川鉄道に接続する津福までの区間を1932年(昭和7年)に開業させたが、九州鉄道・大川鉄道ともに経営不振でこれより先への延伸は停滞した。その上、進藤の社長就任後の1933年10月、前社長の海東要造と前支配人が商法違反などの容疑で逮捕されるという事件が発生する(九鉄事件)。この事態を受けて九州鉄道は人員整理を含む社内整理を断行し、大牟田延伸も一旦凍結するに至った。 1936年、経営再建の一環として大牟田延伸計画が復活。翌年九州鉄道は大川鉄道を合併するが、この際に4割減資の上で建設費に充てるため株式の払込金を追加徴収する、という株主に負担を強いる処理を断行し、大牟田延伸に着手した。1937年(昭和12年)10月、まず柳川までの区間が完成。その後も順次南下して1938年(昭和13年)10月に大牟田市内の栄町まで到達、翌年大牟田駅乗り入れを果たした。この延伸に際して大牟田駅までの用地買収が難航したが、進藤が話をつけて解決したという。重化学工業の拠点となっていた大牟田へと延伸した影響は大きく、延伸による利用客の急増で経営は好転し、1940年(昭和15年)下期には復配を達成している。 九州鉄道が大牟田延伸を果たした前後、電力業界では国策会社日本発送電の設立(1939年4月)を中心とする電力の国家管理が進行していた。1940年代に入り電力国家管理政策が既存事業者の解体を意味する配電統制にまで及ぶと、東邦電力は会社の存続を不可能と判断(実際に1942年4月解散するに至る)、傘下にあった九州鉄道と福岡市内の路面電車事業を担当する福博電車の2社の株式処分を決断した。株式の売却先は、当時福岡県内の交通事業の統合を目指していた北九州の鉄道会社九州電気軌道で、1940年(昭和15年)12月、株式が譲渡されて九州鉄道・福博電車の筆頭株主は九州電気軌道に代わった。だがこういった手続きは東邦電力会長の松永安左エ門と社長の竹岡陽一、九州電気軌道社長の村上巧児の3者によって進められたもので、九州鉄道社長である進藤は意思決定の埒外に置かれていた。このことから九州電気軌道と進藤の間には軋轢を生じたという。 それから1年余りが経った1942年(昭和17年)1月25日、進藤は福岡市新開町の自宅で療養中のところ胃がんのため死去した。満57歳没。九州鉄道社長在任中であった。後任社長に村上巧児が就いたことで、九州電気軌道による事業統合計画は一挙に前進し、同年9月、九州電気軌道・九州鉄道・福博電車・博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道の5社合併によって西日本鉄道株式会社が発足した。
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