中学~高校生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:42 UTC 版)
小学校卒業後は、相撲の強豪校の一つである報徳学園中学校に進学し、3年次に全国中学生相撲選手権大会に優勝し中学生横綱のタイトルを獲得するなどの活躍をした。その大会の決勝戦では後に大相撲でライバルとしてぶつかり合う打越奎也と顔が合った。2年次まで全く結果を出せず、角界入門もしくは高校進学に伴い7年間受け続けた父の指導から離れる前に父に恩返しできずに終わってしまうのではないかと不安に思っていた貴信少年にとって、この優勝は後に関取になったことよりもうれしかったという。中学時代には宇良と稽古をすることがあったが、宇良との対戦成績は「五分五分」であったという。中学卒業後は角界入門か高校進学かで悩んでいたが、埼玉栄高校相撲部の山田道紀監督から「プロで活躍したいのなら、栄に来なさい」と勧誘されて高校進学を選んだ。 埼玉栄高校には、普通科アスリートコースに特待生として入学した。中学横綱のタイトルを獲得したこともあって高校入学当初の佐藤はやんちゃ坊主であり、先輩にタメ口を聞くなど勘違いした行動が目立ったが、山田監督の指導によって礼儀作法を身に着けた。また、中学横綱であろうと先輩は容赦なく礼儀作法を教え、箸の上げ下げなども佐藤は細かく注意された。掃除、洗濯、米炊きなどもほかの部員と同じようにやらされる中で、食事を作ってもらえることや洗濯をしてもらえることが当たり前ではないと気付いた。実家でのハンバーグ中心の食生活で脂肪が多く付いていた体は、厳しい稽古と野菜中心の食生活によって130㎏から10㎏以上減って筋肉質なものに変わっていった。 相撲に関しては「最初から手がかからなかった」と山田が振り返るほど真摯であったといい、ある冬の夜の自主練習では通常より数段負荷がかかる爪先立ちで寒い稽古場に湯気が立つほど四股をやり込んでいた。高校時代に修学旅行が行われた際にも「旅行で5日も休んだら、弱くなるよ」と言われ稽古に明け暮れた。寮では山田が朝5時に起きて全員分のちゃんこを作ってくれていたので選手達は山田のために優勝しようという共通した思いを込めて相撲に取り組んだ。 山田監督のもと関東高等学校相撲選手権大会の無差別級で2連覇。全日本ジュニア相撲選手権大会の無差別級2連覇。他、高校全国大会7タイトル獲得。3年次に台湾で行われた世界ジュニア相撲選手権大会の無差別級で優勝するなど多くの大会で抜群の成績を残した。
※この「中学~高校生時代」の解説は、「貴景勝光信」の解説の一部です。
「中学~高校生時代」を含む「貴景勝光信」の記事については、「貴景勝光信」の概要を参照ください。
中学・高校生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/11 08:30 UTC 版)
松山西中学校に進学当初はテニスウェアが可愛いという理由からテニス部へ入部しようと考えていたが、部活動見学で陸上部へ行った際に先輩から飴を貰い、それがきっかけとなり陸上部へ入部。入部してしばらくは100m・1500m・走幅跳などに取り組んだが、ハードルを綺麗に跳ぶ他校の先輩の姿を見たのをきっかけに、1年の秋から100mハードルに取り組み始めた。なお、初めて走った100mジュニアハードルは17秒17だった。3年時には四国大会への出場を決めたが、当時の実力は本人曰く「予選落ち」だった。しかし、グラウンドが家の近所という済美高校の練習に参加させてもらうと、成果があったのか四国大会では6位に入った。中学時代は全国大会を経験したことがなく、これが最高成績となった。 高校は家に近いということもあり、練習にも参加した済美高校に進学した。中学校は陸上に力を入れているところではなかったため、高校に入って陸上の基礎を学ぶと、1年時からインターハイ・国民体育大会といった全国大会を経験。2年時にはインターハイで4位入賞を果たしたが、その年の冬から数々の故障に苦しみ、3年時のインターハイは腰痛の影響もあって準決勝で敗退。日本ジュニア選手権では5位に入るも、2年時の自己ベスト(14秒13)を更新することはできなかった。
※この「中学・高校生時代」の解説は、「伊藤愛里」の解説の一部です。
「中学・高校生時代」を含む「伊藤愛里」の記事については、「伊藤愛里」の概要を参照ください。
中学・高校生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/18 22:16 UTC 版)
中学校に進学後は野球部に入部。小学生時代と変わらず、足が速いことから1番・センターを任されていた。中学生になっても野球中心の生活だったが、それでも中学3年時には全日本中学校選手権200mに出場した。結果は予選敗退に終わったが、初めて全国の舞台を経験し、高校では本格的に陸上をすることを決意した。 高校は愛知県の強豪である豊川高等学校に進学。本格的な練習をするのは初めてだったため当初は戸惑ったが、徐々に練習にもついていけるようになると、2年時に日本ユース選手権男子100mで7位入賞を果たした。3年時にはインターハイの個人種目(男子100m)に初出場を果たすも、大会前のハムストリングス肉離れの影響で準決勝敗退に終わった。高校時代の100mの自己ベストは10秒65。
※この「中学・高校生時代」の解説は、「長田拓也」の解説の一部です。
「中学・高校生時代」を含む「長田拓也」の記事については、「長田拓也」の概要を参照ください。
- 中学~高校生時代のページへのリンク