上古から彎刀の出現まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)
弥生時代前期には青銅製の刀剣類が確認される。日本最古の王墓といわれる福岡県の吉武高木遺跡からは銅剣が多数発掘されている。 弥生時代後半には、250年頃の古墳である同県の祇園山古墳から鉄製の剣が発見され、鉄製の刀剣類の生産が始まっていた。また草那藝之大刀も古墳時代前と考えられる(古事記に登場し古代天皇の三種の神器の一つとされる)。 古墳時代には、埼玉県の稲荷山古墳や島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳(現古代出雲王陵の丘の一部)からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。 この時代の刀剣の多くは朽損しているが、古墳時代後期(6世紀)以降の直刀は「装飾付大刀」とも呼ばれ、金装・銀装・金銅装の煌びやかな装具を装着し、形態的にも様々なバリエーションのものが出現した。島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は保存状態が極めて良い。 この頃、馬匹生産が盛んとなった東日本では、馬上から用いることに適した山刀に近い刀が生まれた(片刃)。柄の形から蕨手刀と呼ばれる。刀に反りがあり、柄も刀身に対し角度を持ち、片手で握って振るう際に威力を持った。また蝦夷へ騎馬術・蕨手刀が伝わり、彼らの優れた弓術と組み合わせた。蕨手刀は彼らの改良により(柄、および湾刀化が進んだ)、威力を増した。 7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんかざりのからたち/きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている。正倉院では唐様大刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りなどの国産の直登、蕨手刀なども現存している。 平安時代初期の刀剣は遺品にこそ乏しいが、坂上田村麻呂の儀仗用とされる鞍馬寺の「黒漆剣(くろうるしのつるぎ)」や、兵仗用とされる清水寺 (加東市)の「騒速(そはや)」が現存している。特に清水寺の大刀は切刃造の1口の他に鋒両刃造の2口があり、特色として3口とも鎬筋がやや中央に寄り、刀身全体に浅い反りがあることから、奈良時代末期から平安時代中期にかけて兵仗が直刀から湾刀へと変遷する過程の初期のものとも考えられる。作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、はっきりと分かっていないが、平安中期以降には湾刀へ移行したとみられている。 これら国産の直刀は、東北地方に住んでいた蝦夷・俘囚の影響を受け、直刀片刃で柄に角度をつけた蕨手刀(彎曲刀)、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、柄の装飾を排した毛抜形刀、長大化させた毛抜形太刀を経るにつれ次第に反りも生まれ、日本刀へ変化していったと考えられている。反りがつくことで引き切りに適した武器となり、特に騎馬戦で使いやすくなった。 また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。
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