上古 - 中世前期とは? わかりやすく解説

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上古 - 中世前期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/12 08:04 UTC 版)

高知県の文学史」の記事における「上古 - 中世前期」の解説

上代より鎌倉時代に至る間、文献あらわれ高知文学きわめて少ない。そしてその希少な作品も、多く高知の外から訪れた人々によってつくられたものが記録とどめられたものであって高知人々つくったものではない。鎌倉時代以前高知文学については、その全貌うかがいうる資料伝わらないため、詳細不明としか言いようがない。 奈良時代文人高知訪れた人として石上乙麻呂(? - 750年)を挙げることができる。乙麻呂藤原宇合の妻久米連若売と姦通したかどをもって天平11年739年土佐流された。『万葉集』巻六には「石上乙麻呂卿の土佐の国に配(はなた)えし時の歌」(長歌反歌各1首)が見え、『懐風藻』には土佐詠じた漢詩4首を掲げる。このほか、土佐にあったときの詩をまとめた『銜悲2巻があったと伝えるが、湮滅して今に伝わらない奈良時代終わりごろ、空海弘法大師)もまた高知訪れ室戸岬において修行重ねたことが、その著『三教指帰』に「阿国大瀧岳にのぼりよぢ土州室戸崎に勤念す」と見える延暦 12年793年)、20歳のときのことである。真偽不詳ながら、このとき空海詠んだ和歌法性室戸といえど我が住めば有為の浪風よせぬ日ぞなき」(詞書土佐国室戸といふ所にて」)が『新勅撰和歌集』巻十に収められている。また、後代の御遺告大師伝などでは、このとき空海口の中に明星飛びこむという神秘体験経験したとされる平安時代には、紀貫之866年? - 945年?)が土佐国司として赴任し930年)、『土佐日記』(935年ごろ)を著した同書には、高知から帰途につく貫之や家族和歌多く収めるほか、池(現高知市)に住む「よき人の男につきて下りて住みける」(身分のある女房で、男の赴任ともなって高知下り住みついている人)が詠み送った浅茅生の野辺にしあればもなき池に摘みつる若菜なりけり」という歌が見える(1月7日条)。この歌の作者高知生まれた人ではないが、この地に長らく住まいし、「もなき池」など高知地名をうまく読みこんでいる点において、郷土文学さきがけと言える。このほか、『土佐日記』には船頭たちの歌う歌謡記録されており、これも当時高知つくられたものである可能性がある。また、同書中にあらわれ数多く地名は、後代高知国学者によってくわしく考証が行われ、文芸にも大きな影響与えた鎌倉時代には承久の乱によって土御門上皇1442年 - 1500年)が土佐配流された。上皇は父後鳥羽院の風を受けついで和歌をよくし、藤原定家藤原家隆新古今歌人と雅交を結んだことで知られる家集土御門院御集』はほぼ年次順の配列となっているが、その後半にはあきらかに土佐在住のあいだに詠まれ作品見られ、「散りつもる紅葉うづもれ跡絶えはつる秋の故郷」(『続後撰和歌集』)のように勅撰集含まれるまた、正和5年1316年)には、京極派指導者であった歌人京極為兼土佐流されているが、土佐在住中の文事については記録残っていない。

※この「上古 - 中世前期」の解説は、「高知県の文学史」の解説の一部です。
「上古 - 中世前期」を含む「高知県の文学史」の記事については、「高知県の文学史」の概要を参照ください。

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