上古から隋まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 08:00 UTC 版)
滕州付近は黄河文明の栄えた地で、有史以前より文化が発達していた。紀元前6000年ころの竪穴式住居跡や土器が市の北辛街道から出土しており、この時期の文化は北辛文化と呼ばれる。 伝説では、三皇五帝の内の炎帝(神農氏)と黄帝が戦い炎帝が敗れた後、東へ進んだ黄帝は第十子を滕に封じたという。紀元前1046年、周の武王は弟の錯叔繍を滕に封じ、以来31代に亘り周王室の同姓である姫姓の王が続いたが、越王勾践により紀元前414年に滅ぼされた。戦国時代、滕の文公が王であった時期は孟子の助言に従いながら政治を行い卓抜した実績を挙げたため、「善国」と呼ばれていた。秦の始皇帝が戦国を統一した後は郡県制がしかれ、滕国および薛国はそれぞれ、滕県と薛県となった。 前漢初期、高祖は滕県を蕃県に改め、武帝は公丘県を置きました。北魏は公丘県を廃止して陽平県を置き、北斉は陽平県・薛県・合郷県・昌慮県・永興県・永福県の6県を蕃県に編入した。また沛県・高平県・南武陽県などの一部も蕃県に編入している。
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