三井不動産入社
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1947年(昭和22年)三井不動産労組の中井武彦初代委員長(のち専務)と副委員長の和田一郎(のち常務)が江戸に同社への入社をすすめた。そのころの三井不動産は、規模は三菱地所の五分の一か六分の一、所有しているビルも東京と大阪に二ヵ所、あわせても二万坪そこそこしかない名もない不動産会社だった。しかし、三井合名の不動産課が独立してできた会社であり、本社解散に伴い、多くの人が移っていた。それまで江戸は本社解散後、三井本社で清算人の仕事を手伝っていたが、これからは三井関係の工場や鉱山など現場へ行って出直そう覚悟を決め、だいたい三井鉱山への転出が決まっていた。だが、本社と三井家の後始末が残っており、東京にいたほうが便利だと思って考え直し、この招請を引き受け、同年10月管理部副部長として入社した。 財閥商号商標護持に奔走 1949年(昭和24年)9月、HCLC(持株会社整理委員会)は「三井、三菱、住友三財閥は、昭和25年6月までにその商号、商標を変更し、同7月1日から向こう7年間これを使用してはならない」と指示し、翌50年1月には、これを裏付ける国内政令が発令された。終戦直後の財閥解体指令には商号・商標使用禁止の一般的規定はなかったが、GHQはその後の集中排除法、企業再建整備法など適用の機会に、逐次個別指導によって使用禁止を強要しており、当時すでに金融機関は、三菱銀行は千代田銀行、三井信託銀行は東京信託銀行などに全部社名を変更していた。また住友系各社などではいち早くほとんど全部社名を変え、保険、電工、倉庫三社のみ温存していた。しかし、三菱は三菱電機など八社、三井も三井鉱山など八社がなお旧商号を使っていた。商号・商標の使用禁止はきわめて大きな問題であるので、各グループとも種々対策を講じることにしたが、なかなか良案は得られなかった。そんな時、たまたま三井合名時代の同僚で新設の三井化学取締役総務部長に転出していた宮崎基一から当時取締役業務部長に就任していた江戸に、アメリカ側の五人委員会のメンバーを務め、任務終了後、日本に留まって弁護士となり、三井化学に対し、技術導入の斡旋をしていたのハッチンソンから、商号使用禁止指令は明らかにアメリカ本国政府の方針に反する左翼分子の仕業であるから、アメリカ政府に働きかければ指令廃止が可能であるとして、斡旋を申し入れる旨連絡があった。しかし成功報酬は最低4000万円という、当時としてはとんでもない額だった。 この申し入れを受けて三井では、当時社名を温存していた各社首脳の協議の結果、少しでも見込みがあるならば、いかなる犠牲を払っても、対策を講ずるべしとの結論を得て、ハッチンソンの申し入れに応ずることとし、江戸らがその事務局を担当することになった。そこへ、水高後輩の住友電工の平野禎雄常務(のち副社長)から江戸に、住友側もぜひ参加したいとの申し入れがあったので江戸はそれに応じ、さらに、それなら三菱グループも誘って見ようと考え、三菱の最長老石黒俊夫(当時三菱本社清算人のち三菱地所会長)にところにかけつけ、三菱の参加を勧誘したところ、石黒は各社首脳と協議の上で、ハッチンソンに留保条件付きで、参加の申し入れがあった。こうして戦前戦後を通じ、初めて三グループ共同で大規模作戦が展開されることになった。 政令の実施は目前に控えており、対策は焦眉の急に迫られていたので、米本国への直接働きかけとは別に吉田茂総理にも直訴してマッカーサー総司令官に申し入れをしてもらうことにした。幸い水高後輩で、新進の衆議院議員であった塚原俊郎が吉田のお気に入りで、始終側近にいたので、塚原を通じ詳細に事情を話して頼んでもらった。その結果、政令の実施延期をマッカーサーに申し入れてくれる見通しが得て、1950年(昭和25年)6月、吉田の約束通り政令施行は1年延期された。しかし、サンフランシスコ講和条約調印が遅れたため、再度政令実施は1年延期され、結局1951年(昭和26年)9月条約調印、翌52年4月発効のとき国内政令は廃止された。 三井本館に三菱電機のエレベーターが一基取り付けてあるが、これは戦時中金属回収により取り外されたエレベーター復旧の際、同社の高杉晋一社長の依願で財閥商号商標護持の共同闘争の記念塔として取り付けられたものである。しかし、これには後年三井内からだいぶ批判があった。
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