一高生川端康成との出会いとは? わかりやすく解説

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一高生・川端康成との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)

伊藤初代」の記事における「一高生・川端康成との出会い」の解説

1919年大正8年)の秋頃から、第一高等学校文科に通う3年生川端康成当時20歳)、石濱金作鈴木彦次郎三明永無の4人がカフェ・エランに姿を見せようになった饒舌石濱三明先導して鈴木川端追随するであった一高寄宿舎の和寮10番室で寝食共にする彼ら4人組は、通称「ちよ(千代)」「ちいちゃん」と呼ばれる可憐な少女女給初代当時13歳)を目当てに店に通うようになった。「初代(はつよ)」は東北弁で「はちよ」と発音され、「は」が抜ける音ために、「ちよ」と呼ばれるようになったとされる。 カフェ・エランの初代を知る以前川端三明らは白木屋通い16番女給本名山本千代)を目当てコーヒーお汁粉プリン2、3時間も店でねばっていたことがあった。そしてついに三明が後をつけて麻布区麻布十番(現・港区麻布十番の裏通り山本千代の家をつきとめプロポーズするが、山本千代にはすでに婚約者がいたという一件があった。そのため川端は、またしても〈ちよ〉と呼ばれる少女出会ったことに奇遇感じた川端一高4人組は、翌年1920年大正9年)の春から夏にかけてカフェ・エランに頻繁に通い常連客となっていた。彼らが夜、寮に帰って来る時に歌っていた寮歌いつの間にか、「ちィは可愛い。ちーは可愛い」という歌に変ったのを寮生が耳にするようになった川端日記に、〈女給千代〉を〈一寸可愛い子だ〉、〈僕だつてちいは好きだ〉と綴った帳簿付として下宿していた藤森章(椿八郎)は当時の店の様子について以下のように語っている。 店の一番にぎやかになる十時頃にはぼくは二階寝入っていた。それでも店の右隅のテーブル毎晩のようにやって来る一高三年生ばかりの四人学生のことだけはよく知っていた。その四人が店へ来ると川端さんが見えた山田おばさん千代ちゃんもはしゃぎ出して、早速千代ちゃんはそのテーブルつききりではべっていた。 — 椿八郎「『南方の火』のころ」 「ちよ(千代)」こと初代その頃流行していた『沈鐘』の森の精の歌(ハウプトマン原作歌劇で、北原白秋作詞中山晋平作曲の歌。松井須磨子劇中歌唱)や、自作即興の歌をしなしなと「まだ開き斬らないのような細い身体振って口づさんでいた。石濱らは初代一緒に歌い会話弾んだりしたが、川端は彼らの影にかくれがちで聞き役であった。そんな消極的な自分を、〈石濱三明恋愛強気にはさまれて、何をしてるのだ。哀れな男〉、〈エラン千代になんか、目玉の外まるで閑却されるぢやないか〉と川端日記自嘲した。 あまり酒の飲めない川端寡黙コーヒー啜りながら、初代じろじろ見つめることが多く、それに気づいた初代が、「あらまた康っさんがあたしを見ていらっしゃるわ」と言うと川端自分癖に苦笑し赤くなっていう。鈴木は、人気者初代印象について以下のように回想している。 ちよは、すきとおるような皮膚のうすい色白小娘であったが、痩せぎす薄手の胸のあたりは、まだ、ふくらみ見えず春に程遠い、かたいつぼみといった感じであったでも、マダム好みか、たいていは、やや赤味がかった髪を桃割れ結い上げ半玉ふうなはでな柄の着物に、純白エプロンをつけ、人なつっこく、陽気に歌など唄いながら、卓子のまわり泳ぎまわっていたが、時折、ふっと押しだまると、孤独な影が濃く身辺ただよってさびしげ見えた。 — 鈴木彦次郎川端君と盛岡ある日カフェ眩暈起こした川端鏡台のある部屋寝かせてもらっていた時、湯から帰った初代鏡台前に座りしばらくして隣室の方へ移動して行った。ふと部屋の色が変わった気配がして川端が目を動かすと、背を向けている初代は身に着けいたものをさらりと落とし新しい色のものを腰に巻いているところであったその時見えた初代裸体幼さは、いままで初代20歳の女のように思っていた川端を〈なんだ、子供なんだ〉、〈こんなに子供だつたのか〉と驚かせ以前湯ケ野温泉見た一つ少女裸身〉を思い出させた。その少女伊豆の旅の道中道連れになった旅芸人踊子で、その幼い無邪気な裸身は、彼女を娘盛り思いつめていた川端の心を〈すがすがしく〉させる清らかさであったマダム・ますは、初代実の娘のようにとても可愛がり初代に絡む酔っ払い客をたしなめ大事に扱っていた。当時30代前半の「すらりと背の高い面長な日本風すこぶる美人」のますを目当てやって来る客も多く、「絶世美人称するに足る美しい人」と讃辞する今東光も、マダム方に気があった。そんなますのファン中に東京帝国大学法科3年福田澄男(彫刻家石井鶴三の甥)がいて、ますの方も次第7歳年下福田傾倒していった。ますと福田1920年大正9年7月10日頃に皆で行った潮干狩りの時から、男女関係となった

※この「一高生・川端康成との出会い」の解説は、「伊藤初代」の解説の一部です。
「一高生・川端康成との出会い」を含む「伊藤初代」の記事については、「伊藤初代」の概要を参照ください。

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