一高時代の苦悩
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『草の花』は福永の旧制第一高等学校在学時の体験を元にしており、唯一の私小説的な作品であるとされる。研究史上では、福永のこの体験は「『草の花』体験」と呼ばれている。福永自身ものちに「私は今では事実と想像とを区別することが出来ない」「「僕」にしても藤木忍にしても藤木千枝子にしても、また登場する傍系人物にしても、そこに原型があることを否むわけにはいかない」と述べており、個々の場面は多くを虚構としつつも、自身の作品としては例外的に、モデルと呼べる人物が実在することを認めている。 一高で、福永の1学年下として身近にいた矢内原伊作も、福永のこの解説を事実と認めており、「その原型の人たちがあまりにもよく描かれているために、そして僕自身がその人たちのあまりにも近くにいたために、僕はこの小説を客観的に読むことができない」と述べている。 福永は1934年(昭和9年)4月に一高文科丙類に入学し、弓術部に入部。一高では寮の部屋を部活動ごとに割り振っていたため、弓術部があてがわれていた本郷向ヶ丘の向陵中寮五番に入室した。作中の藤木忍のモデルとなった来嶋 就信(きじま なりのぶ)が、矢内原伊作や森田宗一らと共にこの中寮五番に入ってきたのは、翌1935年(昭和10年)4月のことだった。 矢内原によれば来嶋は、作中通りの「小柄でおとなしい、どこか淋しげなところのある、秀才であることを外には少しもあらわさない秀才の少年」であったという。福永は一つ下の後輩である来嶋と生活を共にする中で、次第に彼への愛を育んでいった。矢内原は「マント姿の二人がつれだって本郷通りを仲良く歩いている」姿を時折見かけてもいる。寮生の間でも、福永が来嶋を愛していることは、広く知れ渡る事実となっていた。 そんな福永と来嶋の間に「悲劇」が起こったのは、来嶋や矢内原が1年の秋を迎えた頃のことで、「福永の一方的な愛は作品の汐見のそれよりもいっそう激情的で、したがってその愛が拒まれた苦悩はいっそう深く、またその一方的愛の受容を要求された藤木の困惑と苦悩は作品に描かれているよりもはるかに深かった」という。おとなしく無口な来嶋にとって、福永のひたむきな愛は恐怖であり、日記に「私には何物にも勝つて自分自身が分らない。唯幾分でも知れてゐるのは、それがくだらない、価値のないものであることだ。(中略)私には人を愛す資格はない。人に愛される資格もない。」と書き残していた。こうして福永も来嶋も、共に苦しみ抜くこととなり、矢内原をはじめとする弓術部の部員たちは、はらはらして成り行きを見守るほかになかった。 1936年(昭和11年)3月末に、弓術部は例年の合宿で、静岡県田方郡戸田村にある一高合宿所に滞在。ここで福永は来嶋とじっくり話したが、高尚な福永の言い分は通じず、合宿が終わると親しく口を利く機会も訪れなかった。 1938年(昭和13年)1月8日に、来嶋は勉強のため滞在していた埼玉県南埼玉郡清久村の伯父の家で、扁桃腺炎から敗血症を併発して急死。深夜に矢内原から訃報を受けた福永は、9日に汽車で清久村へと駆けつけ、来嶋の葬儀に出席している。 また、来嶋の死後、福永は大森駅近くのアパートに移り住んだ来嶋の母と妹の家をよく訪ねるようになった。川西政明はこの記録と矢内原の「藤木忍にもその妹千枝子にも原型がある」という文言から、来嶋の妹である来嶋 静子(きじま しずこ)を、千枝子のモデルであると推察している。また、福永の妻の貞子も、福永の死後の座談会で「あの『草の花』の中に出てくるモデルの女性は友人の妹さんでした」と述べている。
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