一高生・川端康成との出会い
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「伊藤初代」の記事における「一高生・川端康成との出会い」の解説
1919年(大正8年)の秋頃から、第一高等学校文科に通う3年生の川端康成(当時20歳)、石濱金作、鈴木彦次郎、三明永無の4人がカフェ・エランに姿を見せるようになった。饒舌な石濱と三明が先導して、鈴木と川端が追随する形であった。一高の寄宿舎の和寮10番室で寝食を共にする彼ら4人組は、通称「ちよ(千代)」「ちいちゃん」と呼ばれる可憐な少女女給の初代(当時13歳)を目当てに店に通うようになった。「初代(はつよ)」は東北弁で「はちよ」と発音され、「は」が抜ける音ために、「ちよ」と呼ばれるようになったとされる。 カフェ・エランの初代を知る以前、川端と三明らは白木屋に通い、16番女給(本名・山本千代)を目当てにコーヒーやお汁粉やプリンで2、3時間も店でねばっていたことがあった。そしてついに三明が後をつけて麻布区麻布十番(現・港区麻布十番)の裏通りの山本千代の家をつきとめプロポーズするが、山本千代にはすでに婚約者がいたという一件があった。そのため川端は、またしても〈ちよ〉と呼ばれる少女に出会ったことに奇遇を感じた。 川端ら一高4人組は、翌年の1920年(大正9年)の春から夏にかけてカフェ・エランに頻繁に通い、常連客となっていた。彼らが夜、寮に帰って来る時に歌っていた寮歌がいつの間にか、「ちィは可愛い。ちーは可愛い」という歌に変ったのを寮生が耳にするようになった。川端は日記に、〈女給千代〉を〈一寸可愛い子だ〉、〈僕だつてちいは好きだ〉と綴った。帳簿付として下宿していた藤森章(椿八郎)は当時の店の様子について以下のように語っている。 店の一番にぎやかになる夜十時頃にはぼくは二階で寝入っていた。それでも店の右隅のテーブルへ毎晩のようにやって来る、一高三年生ばかりの四人の学生のことだけはよく知っていた。その四人が店へ来ると川端さんが見えたと山田のおばさんも千代ちゃんもはしゃぎ出して、早速千代ちゃんはそのテーブルへつききりではべっていた。 — 椿八郎「『南方の火』のころ」 「ちよ(千代)」こと初代はその頃流行していた『沈鐘』の森の精の歌(ハウプトマン原作の歌劇で、北原白秋作詞、中山晋平作曲の歌。松井須磨子が劇中で歌唱)や、自作の即興の歌をしなしなと「まだ開き斬らない蕾」のような細い身体を振って口づさんでいた。石濱らは初代と一緒に歌い、会話が弾んだりしたが、川端は彼らの影にかくれがちで聞き役であった。そんな消極的な自分を、〈石濱三明の恋愛の強気にはさまれて、何をしてるのだ。哀れな男〉、〈エランの千代になんか、目玉の外まるで閑却されるぢやないか〉と川端は日記で自嘲した。 あまり酒の飲めない川端は寡黙にコーヒーを啜りながら、初代をじろじろ見つめることが多く、それに気づいた初代が、「あらまた康っさんがあたしを見ていらっしゃるわ」と言うと、川端は自分の癖に苦笑して赤くなっていう。鈴木は、人気者の初代の印象について以下のように回想している。 ちよは、すきとおるような皮膚のうすい色白な小娘であったが、痩せぎすの薄手の胸のあたりは、まだ、ふくらみも見えず、春には程遠い、かたいつぼみといった感じであった。でも、マダムの好みか、たいていは、やや赤味がかった髪を桃割れに結い上げ、半玉ふうなはでな柄の着物に、純白なエプロンをつけ、人なつっこく、陽気に歌など唄いながら、卓子のまわりを泳ぎまわっていたが、時折、ふっと押しだまると、孤独な影が濃く身辺にただよって、さびしげに見えた。 — 鈴木彦次郎「川端君と盛岡」 ある日、カフェで眩暈を起こした川端が鏡台のある部屋に寝かせてもらっていた時、湯から帰った初代が鏡台の前に座り、しばらくして隣室の方へ移動して行った。ふと部屋の色が変わった気配がして川端が目を動かすと、背を向けている初代は身に着けていたものをさらりと落とし、新しい色のものを腰に巻いているところであった。 その時に見えた初代の裸体の幼さは、いままで初代を20歳の女のように思っていた川端を〈なんだ、子供なんだ〉、〈こんなに子供だつたのか〉と驚かせ、以前湯ケ野温泉で見た〈一つの少女の裸身〉を思い出させた。その少女は伊豆の旅の道中で道連れになった旅芸人の踊子で、その幼い無邪気な裸身は、彼女を娘盛りと思いつめていた川端の心を〈すがすがしく〉させる清らかさであった。 マダム・ますは、初代を実の娘のようにとても可愛がり、初代に絡む酔っ払い客をたしなめ、大事に扱っていた。当時30代前半の「すらりと背の高い面長な日本風のすこぶる美人」のますを目当てにやって来る客も多く、「絶世の美人と称するに足る美しい人」と讃辞する今東光も、マダムの方に気があった。そんなますのファンの中に、東京帝国大学法科3年の福田澄男(彫刻家・石井鶴三の甥)がいて、ますの方も次第に7歳年下の福田に傾倒していった。ますと福田は1920年(大正9年)7月10日頃に皆で行った潮干狩りの時から、男女関係となった。
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