ルーラ政権との関係の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/26 06:21 UTC 版)
「土地なし農民運動」の記事における「ルーラ政権との関係の推移」の解説
当初、ルーラ政権は左翼であり、フレンドリーな政府としてMSTでは見られていたため、2003年以降の占拠の第二波(second wave)では、個人所有の土地に対する行動が優先され、公共の建物の職業を避けていた。しかし、土地改革に関して法律的な側面も含めたルーラ政権の保守的な立場が明確になるにつれ(実際、カルドーゾ政権の達成よりも幾分少ない)、2004年初めにはその姿勢を変更し、公共建築物やブラジル銀行の代理店を再び占有し始めた。 2003年6月、MSTはゴイアス州にあるモンサント社のR&Dファームを、2008年3月7日、サンパウロで別のモンサント社の施設を女性の活動家が占拠した。育種所と遺伝子組み換えトウモロコシの実験区画を破壊し、進行中の科学研究を遅らせた。 MSTは多国籍企業によって供給された「遺伝子組み換え作物(GMO)」の広範な使用に対する政府の支援に抗議するために、研究施設を破壊したと述べた。 2003年に、ルーラ大統領はGMO大豆の販売と使用を許可し、MSTのジョアン・ペドロ・ステディレは彼を「遺伝子組換え政治家」と呼んだ。すでに2000年代初頭にはブラジル国内における国境を越えた種子の支配はモンサント社によってなされ、その82%ものシェアを占めていた。MSTはこれを経済的利益をもたらすものの、有機農業の発展に有害であると見なした。農薬の使用によってもたらされるのと同様の将来的な健康被害の可能性がある。のちにステディレはモンサント社を、実質的に農業生産と取引のすべてを支配する国境を越えた10の企業のうちのひとつと呼んだ。同様のエピソードが2006年に起こった。 MSTはパラナ州でGMOを生産していたスイスのシンジェンタ社が所有する研究施設を占拠した。 (シンジェンタ社はGMO研究を続けることができるように、ルラ政権により以前の制限を緩和されていた)対立の後、パラナ州政府の管轄へと施設は移り、「農業環境研究センター(agroecology research center)」へとかわった。 ル―ラ政権とステディレ相互の応酬ののち、ルーラは運動の要求に不要な急展開を見た。これに対して、2005年5月、MSTは大規模なデモンストレーションを行なった。ゴイアニア市から200キロ以上を行進し、約13,000人の土地なし農民が首都ブラジリアに到着した。 実際のところ、MSTの行進はルーラ大統領ではなく、「米国大使館」と「ブラジル財務省」を標的にしていた。何千人もの参加者が「鎌」や「横断幕」を掲げて街頭行進した。50人の代表団は、報道陣のカメラに向けてMSTキャップを着用したルーラ大統領と3時間の会合を開いた。このセッション中、大統領は2006年末までに約43万家族の解決を再委任し、この目標を達成するために必要な人的資源と資金を配分することに合意した。また再分配のための利用可能な土地のプールなど、関連する改革にコミットした。 その後、ルーラ政権は、2002年から2006年の間に381,419家族を移譲したと主張した。この主張はMSTとしては議論の余地があった。MSTはこの数字はすでに存在していた地域(国有林やその他の管理された環境保護区域、既存の集落など)に住んでいる人々を含めることによって「水増しされた」と主張した。MSTはまたルーラ政権の「土地再分配」とは単に小規模区画の土地を引き渡すことでしかないと批判した。それは政権の「施し主義」(assistencialismo)の一形態であり、生産的なシステムを変えることはなかった。 行進は参加者の需要からなされた。ルーラ大統領は国家債務のサービスに予算を費やすよりもむしろ限られた農業改革計画に取り組んだ。2005年5月18日、MSTの指導者数名は、大統領就任以来自身によって抵抗されつづけてきた会談を行なった。指導者たちは大統領に経済改革、公共支出の拡大、公的住宅など16の需要のリストを提示した。 その後ロイターとのインタビューで彼らは大統領とは依然「同盟関係」にあるとしたが、同時に約束の土地改革を加速するよう求めたと述べた。しかしながら同年9月、ジョアン・ペドロ・ステディレは土地改革に関する限り、ルーラ政権とは「終わった」と宣言した。政権最初の任期の終わりには、MSTは政府の議題とは関係なく、再行動を決定していた。ルーラ政権からMSTが得た最大の利益は「運動自体の非犯罪化」であった。カルドソ政府の厳しい反占拠措置は放置され強制されなするかった。MSTを「テロ組織」と定義するために調整される可能性のあった法律制定の試みも労働者党派の議員によってうまく反対された。それにもかかわらず、ルーラ政権は社会運動組織を「政府保護の枠外に保つ」という一般的なパターンに則り、MSTと連携して行動したことは一度もなかった。つまり、ドイツの作家が述べたように「土地改革」という点では、地方の農業エリートによって定期的にブロックされるという青写真へと進んでいたのだった。
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