ヨーロッパにおける移行
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『ジャズ・シンガー』は1928年9月27日にロンドンのピカデリー・シアターでヨーロッパ初公開となった。映画史家 Rachael Low によれば「多くの業界人がトーキーへの転換は避けられないと悟った」という。1929年1月16日、ヨーロッパ初の長編トーキーが公開になった。ドイツ映画の『奥様お手をどうぞ』である。ただし台詞はなく、Richard Tauber が歌を数曲披露しているだけだった。この映画では、トリ=エルゴンを引き継いだドイツ-オランダ系企業 Tobis が開発したサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。Tobisはヨーロッパにトーキー市場が出現することを見越して参入し、ドイツの有力電機企業2社の合弁会社 Klangfilm と同盟を結んだ。1929年初めには Tobis と Klangfilm は録音・再生技術の売り込みを開始した。ERPIがヨーロッパ各地の劇場でトーキー設備の設置を開始すると、Tobis-Klangfilm はウェスタン・エレクトリックがトリ=エルゴンの特許を侵害していると主張し、アメリカの技術が各地に設置されるのを阻止した。ちょうどRCAが録音システムを売り込めるように映画産業に参入してトーキー化を推進したように、Tobisも自ら映画スタジオを設立した。 1929年、ヨーロッパの映画会社の多くはトーキーへの転換のためハリウッドと手を組んだ。このころのヨーロッパのトーキーは外国で製作されることが多かった。これは、自国のスタジオをトーキー用に改修していたという面もあるが、同時に自国語以外の外国語で映画を製作して海外に売るという思惑もあった。ヨーロッパ初の2つの長編トーキーのうちの1つ The Crimson Circle は、複雑な経緯で国際的な製作となった。元々は監督 Friedrich Zelnik により Efzet-Film が製作した無声映画 Der Rote Kreis としてドイツで1928年に公開された。イギリスの British Sound Film Productions (BSFP) がこれに後から英語の台詞を追加した。BSFPはド・フォレストのフォノフィルムの子会社である。これが1929年3月にイギリスで公開された。同時期に公開された The Clue of the New Pin はイギリスで全編製作された部分トーキーで British Photophone と呼ばれるサウンド・オン・ディスク方式を使用している。Black Waters はイギリスの映画会社がハリウッドで全編製作したもので、ウェスタン・エレクトリックのサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。これらはいずれも大きな影響を与えることはなかった。 ヨーロッパ映画で最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督は当時29歳のアルフレッド・ヒッチコックで、この映画はロンドンで1929年6月21日に公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーンを追加し、音楽や効果音を追加して公開となった。British International Pictures (BIP) による製作で、録音はRCAフォトフォンで行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックは Tobis-Klangfilm の市場に関与するためにその親会社であるAEGの株式を取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった。評論家も概ね好意的だった。例えば辛口で知られた評論家 Hugh Castle は「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した。 1929年8月23日、オーストリア初のトーキー G’schichten aus der Steiermark が公開された。9月30日には全編ドイツ製作の長編トーキー Das Land ohne Frauen が公開になった。Tobis Filmkunst の製作で、全体の4分の1ほどに台詞があり、音楽や効果音とはかぶらないよう厳密に分離されていた。ただし、興行的には失敗した。スウェーデン初のトーキー Konstgjorda Svensson は同年10月14日に公開された。その8日後、パリ近郊のスタジオで撮影された Le Collier de la reine が公開されている。元々は無声映画として撮影されたもので、Tobisにより音楽と会話シーンが1カ所だけ追加された。これがフランスの長編映画初の会話シーンとなった。10月31日に公開となった Les Trois masques は、パテ-ナタン・フィルムの製作である。これがフランス初の長編トーキーとされることが多いが、撮影はロンドン郊外エルストリーのスタジオ(『恐喝』と同じ)で行われた。その制作会社はRCAフォトフォンと契約を結んでいた。同じスタジオで数週間後に La Route est belle も撮影されている。パリの映画スタジオの多くはトーキー対応の改修が1930年まで伸び、それまでフランスのトーキーの多くはドイツで撮影された。ドイツ初の完全トーキー長編 Atlantik は10月28日にベルリンで公開された。これもロンドン郊外のエルストリーで撮影された映画であり、Les Trois masques や La Route est belle がフランス的と言えるほどドイツ映画らしくなかった。BIPはイギリス人脚本家とドイツ人監督で英語版の Atlantic を製作した。完全なドイツ製トーキー Dich hab ich geliebt はその3.5週間後に公開され、アメリカ合衆国で Because I Loved You として公開され、アメリカで公開された初のドイツ製トーキーとなった。 1930年、サウンド・オン・ディスク方式のポーランド初のトーキー Moralność pani Dulskiej が3月に、完全トーキー Niebezpieczny romans が10月に公開された。イタリアの映画界はかつて盛んだったが1920年代末には瀕死の状態だった。イタリア初のトーキー La Canzone dell'amore は1930年10月に公開され、イタリア映画界は約2年で復活を遂げることになった。最初のチェコ語のトーキー Tonka Šibenice も1930年に公開された。ヨーロッパ映画界ではマイナーなベルギー(フランス語)、デンマーク、ギリシャ、ルーマニアといった国々でもトーキーを制作している。ソビエト連邦では1930年12月に公開されたジガ・ヴェルトフのノンフィクション Entuziazm が最初だが、これは台詞がなく実験的なものだった。Abram Room のドキュメンタリー映画 Plan velikikh rabot には音楽とナレーションが入っている。これらはいずれも独自のサウンド・オン・フィルム方式を使っていた。当時、世界中に200ものトーキーの方式が乱立していた。1931年6月に公開された Nikolai Ekk の劇映画 Putevka v zhizn がソビエト連邦初の完全トーキーとなった。 ヨーロッパでは劇場のトーキー設備設置が映画製作よりも遅れたため、サイレント版も並行して制作するか、トーキーを単に音なしで上映した。イギリスでは1930年末までに60%の劇場がトーキー対応となった。これはアメリカ合衆国とほぼ同程度のペースである。一方フランスでは1932年後半になっても半数以上の劇場がトーキー未対応だった。Colin G. Crisp によれば、フランスの映画業界は1935年ごろまで無声映画が芸術としても商業としてもまだまだ見込みがあると見ており、しばしば無声映画への回帰が起きるのではないかという懸念を表明していたという。このような見方はソビエト連邦でも根強かった。1933年5月の時点でソビエト連邦内の映写機にトーキー設備が設置されたのは2%ほどだった。
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