ヨーロッパにおける移行とは? わかりやすく解説

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ヨーロッパにおける移行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:56 UTC 版)

トーキー」の記事における「ヨーロッパにおける移行」の解説

ジャズ・シンガー』は1928年9月27日ロンドンのピカデリー・シアターでヨーロッパ初公開となった映画史家 Rachael Low によれば多く業界人トーキーへの転換避けられない悟った」という。1929年1月16日ヨーロッパ初の長編トーキー公開になったドイツ映画の『奥様お手をどうぞ』である。ただし台詞はなく、Richard Tauber が歌を数曲披露しているだけだった。この映画では、トリ=エルゴンを引き継いだドイツ-オランダ系企業 Tobis が開発したサウンド・オン・フィルム方式採用していた。Tobisはヨーロッパトーキー市場出現することを見越して参入しドイツの有力電機企業2社の合弁会社 Klangfilm と同盟結んだ1929年初めには Tobis と Klangfilm は録音・再生技術売り込み開始した。ERPIがヨーロッパ各地劇場トーキー設備設置開始すると、Tobis-Klangfilm はウェスタン・エレクトリックトリ=エルゴンの特許侵害していると主張しアメリカ技術各地設置されるのを阻止した。ちょうどRCA録音システム売り込めるように映画産業参入してトーキー化を推進したように、Tobisも自ら映画スタジオ設立した1929年ヨーロッパ映画会社多くトーキーへの転換のためハリウッド手を組んだこのころヨーロッパトーキー外国製作されることが多かった。これは、自国スタジオトーキー用に改修していたという面もあるが、同時に自国以外の外国語映画製作して海外に売るという思惑もあった。ヨーロッパ初の2つ長編トーキーのうちの1つ The Crimson Circle は、複雑な経緯国際的な製作となった。元々は監督 Friedrich Zelnik により Efzet-Film が製作した無声映画 Der Rote Kreis としてドイツ1928年公開された。イギリスBritish Sound Film Productions (BSFP) がこれに後から英語の台詞追加した。BSFPはド・フォレストのフォノフィルムの子会社である。これが1929年3月イギリス公開された。同時期に公開された The Clue of the New Pinイギリス全編製作され部分トーキーBritish Photophone と呼ばれるサウンド・オン・ディスク方式使用している。Black Watersイギリスの映画会社ハリウッド全編製作したもので、ウェスタン・エレクトリックサウンド・オン・フィルム方式採用していた。これらはいずれ大きな影響与えことはなかった。 ヨーロッパ映画最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督当時29歳アルフレッド・ヒッチコックで、この映画ロンドン1929年6月21日公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーン追加し音楽効果音追加して公開となったBritish International Pictures (BIP) による製作で、録音RCAフォトフォン行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックは Tobis-Klangfilm の市場関与するためにその親会社であるAEG株式取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった評論家概ね好意的だった例え辛口知られ評論家 Hugh Castle は「我々が見たともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した1929年8月23日オーストリア初のトーキー G’schichten aus der Steiermark が公開された。9月30日には全編ドイツ製作の長編トーキー Das Land ohne Frauen が公開になった。Tobis Filmkunst の製作で、全体4分の1ほどに台詞があり、音楽効果音とはかぶらないよう厳密に分離されていた。ただし、興行的に失敗したスウェーデン初のトーキー Konstgjorda Svensson同年10月14日公開された。その8日後、パリ近郊スタジオで撮影されLe Collier de la reine が公開されている。元々は無声映画として撮影されたもので、Tobisにより音楽会話シーンが1カ所だけ追加された。これがフランス長編映画初の会話シーンとなった10月31日公開となった Les Trois masques は、パテ-ナタン・フィルムの製作である。これがフランス初の長編トーキーとされることが多いが、撮影ロンドン郊外エルストリーのスタジオ(『恐喝』と同じ)で行われた。その制作会社RCAフォトフォン契約結んでいた。同じスタジオで週間後に La Route est belle撮影されている。パリ映画スタジオ多くトーキー対応の改修1930年まで伸びそれまでフランストーキー多くドイツ撮影された。ドイツ初の完全トーキー長編 Atlantik は10月28日ベルリン公開された。これもロンドン郊外のエルストリーで撮影された映画であり、Les Trois masquesLa Route est belleフランスと言えるほどドイツ映画らしくなかった。BIPイギリス人脚本家ドイツ人監督英語版Atlantic製作した。完全なドイツトーキー Dich hab ich geliebt はその3.5週間後に公開されアメリカ合衆国Because I Loved You として公開されアメリカで公開された初のドイツトーキーとなった1930年、サウンド・オン・ディスク方式ポーランド初のトーキー Moralność pani Dulskiej が3月に、完全トーキー Niebezpieczny romans10月公開された。イタリアの映画界はかつて盛んだった1920年代末には瀕死の状態だった。イタリア初のトーキー La Canzone dell'amore1930年10月公開されイタリア映画界は約2年復活遂げることになった最初チェコ語トーキー Tonka Šibenice も1930年公開された。ヨーロッパ映画界ではマイナーなベルギーフランス語)、デンマークギリシャルーマニアといった国々でもトーキー制作している。ソビエト連邦では1930年12月公開されジガ・ヴェルトフノンフィクション Entuziazm が最初だが、これは台詞がなく実験的なのだった。Abram Roomドキュメンタリー映画 Plan velikikh rabot には音楽ナレーション入っている。これらはいずれも独自のサウンド・オン・フィルム方式使っていた。当時世界中200ものトーキー方式乱立していた。1931年6月公開されNikolai Ekk劇映画 Putevka v zhizn がソビエト連邦初の完全トーキーとなったヨーロッパで劇場トーキー設備設置映画製作よりも遅れたため、サイレント版も並行して制作するか、トーキーを単に音なし上映したイギリスでは1930年末までに60%の劇場トーキー対応となった。これはアメリカ合衆国とほぼ同程度ペースである。一方フランスでは1932年後半になって半数上の劇場トーキー未対応だった。Colin G. Crisp によればフランスの映画業界1935年ごろまで無声映画芸術としても商業としてもまだまだ見込みがあると見ており、しばしば無声映画への回帰起きるのではないかという懸念表明していたという。このような見方ソビエト連邦でも根強かった1933年5月時点ソビエト連邦内の映写機トーキー設備設置されたのは2%ほどだった。

※この「ヨーロッパにおける移行」の解説は、「トーキー」の解説の一部です。
「ヨーロッパにおける移行」を含む「トーキー」の記事については、「トーキー」の概要を参照ください。

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