ボーイング共同開発
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1971年(昭和46年)6月、日本大学の木村秀政教授を団長とする「航空機工業海外調査団」(木村ミッション)をアメリカに派遣し、提案の信憑性などを調査させた。調査の結果、マクドネル・ダグラスは日本を下請けと位置付けており、ロッキードはノウハウの購入を迫っていた上、ワンマン社長の独断で計画が反故にされるかもしれなかったが、ボーイングは日本を対等パートナーとして50パーセントの分担比率を提示したため、YX開発専門委員会は、「交渉相手として、当面ボーイングを第一対象とする」との結論にいたり、政府答申の承認を以ってYX計画は本格的に動き出した。 しかしボーイングは交渉を進めると、3発のYXを凍結し、ボーイングが独自に計画してきた7X7中型双発旅客機への参加に切り替えるように打診してきた。日本としては、これを蹴ってしまえば当分の間は旅客機を作ることはできないと考え、YXを7X7に統合することで参加を表明した。 この頃、日本の航空産業界でも状況が変わった。国内開発と噂されていた次期対潜哨戒機PX-Lが、時の首相田中角栄の強い推薦もあってロッキードP-3のライセンス生産に決定してしまい、産業に穴があいてしまいそうになってしまった。それ以降、国が100パーセント支出せよといった強気な発言は無くなり、YXへの参加ムードが業界内にも広がり始めた。 1973年(昭和48年)3月、YS-11は通算182号機の製造を完了し、生産を終了した。翌4月、三菱重工業、川崎重工業、富士重工業などからなる航空工業会は、日航製に代わるYXの開発母体として民間輸送機開発協会(CTDC)を設立し、月内にボーイングとYX/7X7共同開発に関する了解覚書(MOU)を締結した。 ところがこの直後、中東戦争の勃発が引き金となってオイルショックが到来した。燃料費の高騰によってエアラインも航空機メーカーも経営が非常に悪化していた。大規模なリストラに踏み切る企業も数多く現れ、ボーイングも747の売上不調から、そうした荒療治によって企業生命を保っている状況であった。 ボーイングはこのとき、7X7とは別にイタリアのアエリタリア社とも中型機の共同開発計画を持っていたが、時勢の変化によって二つの計画を平行させることは無意味として、この計画も7X7に統合させることを決定した。分担比率は交渉によって明らかになった三国の力関係から、ボーイング51パーセント、日本29パーセント、イタリアは20パーセントとなり、日本は当初の50パーセントから大きく後退したものの、出せる開発費が元々少なく、旅客機開発の実態もまるで知らない日本が権利の半分を手にするなど、そもそも無理な話だったのである。 とはいえ、ボーイングの強引なやり方に日本の不満は募り、1975年(昭和50年)に来日したボーイングのウィルソン会長と、河本敏夫通産大臣の会談によって、日本の主体性を尊重するように打診、ウィルソンも承諾してようやくYX/7X7は具体的に動き出した。 通産省は昭和51年度の開発補助金として、その年の開発費の85パーセントにあたる100億円を要求したが、大蔵省は日本主導でない計画に多額の出資をしては国民に説明できないとして、75パーセント分に削減した。この頃、オイルショックによる造船不況が尾を引いており、造船を管理する運輸省(現国土交通省)も多額の予算を要求していたため、国としては稼ぎ頭である造船への資金投入を優先したかったのである。 ともあれ、予算は少ないながらも取得できたため、ボーイングに対してさらに日本の主体性を6項目に亘るメモによって強調した。 全分野に参画。 日本の航空会社の要望を考慮する。 日本の持分率を20パーセントとする。 共同事業体(ジョイントベンチャー)を設立する。 販売への参加。 機種名に日本側参画を表示。
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