ボーイングの強硬姿勢
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ところが、1976年(昭和51年)2月にロッキード事件(賄賂によってロッキード旅客機を有利に採用していた事件)が発覚すると、ボーイングは豹変した。 同年10月にスタンパー社長が来日し、「市場の変化から7X7とは別に、わが社独自の150人乗り7N7(後の757)との関係から、両機合わせて総合評価するために開発を遅らせたい」と申し入れた。これは、ボーイングが本気で7X7に取り組む姿勢に入ったことを表していた。ボーイングはこのとき、小型機727の売上が史上最高を記録し、また超音速旅客機SSTを中止したため、予算と人員を丸ごと7X7(あるいは7N7)に投入することができるようになっていた。 スタンパーはこの計画に10億ドルを出しても良いと言ったが、これはようやく日本側が捻り出した予算よりも一桁多かった。もちろんスタンパーは日本の予算も知っていて10億ドルと口にすることで、すでに主導権はボーイングにあることを示していた。また、独自調査によって、日本の参加比率が高くなると、信頼性の問題から売れなくなるとの見通しもあった。すでに経済力からも、ボーイングは日本を必要としなくなっていた。 こうなるとボーイングの宿敵ロッキードを、賄賂によって有利に導いた日本にはボーイングに対抗するだけの論理が無く、1977年(昭和52年)7月からの日米交渉において、以下の内容が決定した。 開発の全責任はボーイングが負い、主導権を持つ。 共同事業体から共同事業体制とする。 イタリアに対しても日本と同じ参加形態で折衝する。 調整費の支払いは不要。 日本は分担作業以外の技術分野、その他の事業全般にわたって参加する。 ここで分担率はボーイング70パーセント、アエリタリア15パーセント、日本15パーセントに決定した。最初の妄想的な50パーセントからは大幅な後退であるが、同年9月22日の第二十五回政策小委員会において、「現実的な選択」として全面的に受け入れることを決定した。
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