ボーイング案の勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:16 UTC 版)
「ボーイング2707」の記事における「ボーイング案の勝利」の解説
ボーイング、ロッキードの両社にはそれまでよりも遙かに詳細な設計案の提示が求められ、1966年に最終審査がなされることとなった。この時点で、ボーイング案は300席の モデル 733-390(2707-100/-200) となっていた。1966年9月には、ロッキードの L-2000 と共に、実物大モックアップ(模型)が提示された。(画像)一連の審査が続き、12月31日に、GEの GE4/J5 エンジンを搭載したボーイング案の勝利が報じられた。ボーイング案と比較して、ロッキード案は製造が容易でリスクも小さいかわりに、性能がやや劣り騒音レベルもやや大きいと判定された。 モデル 733-390 は、当時の亜音速飛行機と比較しても先進的だった。通路が2本ある「ワイドボディ」機のはしりであり、横一列の座席配置は 2席 - 通路 - 3席 - 通路 - 2席(2-3-2と表記される)だった。当然、当時運航中のナローボディ(単通路)機よりずっと太い胴体を備えていた(※ ただし、すぐに亜音速のワイドボディ機が出始めた。たとえば、ボーイング747は1969年に初飛行している)。 モックアップには、落下防止バー付のオーバーヘッドストレージ(頭上手荷物入れ)に加え、機内のセクション間に大きめの荷物置き場が設けられていた。247席のツーリストクラスには、6列ごとの上部に収納可能なテレビがあり、30席のファーストクラスには、隣り合った2座席の間のコンソールに、小ぶりのテレビが2つあった。 ボーイングは次のように予測していた ― 開発がただちに承認されれば、1967年に原型試作機の製作を開始し、1970年初頭に初飛行を達成できる。さらに、1969年初頭から量産を開始し、1972年の後期には量産機の初飛行、1974年の半ばまでには型式証明を取得できる ― と。 しかしながら、原型試作の段階で、可変翼の機構に起因する重量増が手に負えないほどの大問題となってしまった。ついに1968年10月にはモデル 2707-100/-200の可変翼案を放棄せざるを得なくなり、(自分たちがうち負かした)ロッキード案によく似たデルタ翼を採用することになった。サイズをやや縮小して 234 席となったこの設計案は モデル 2707-300 とされた。1969年9月に、実物大モックアップと2機のプロトタイプの製作が開始されたが、既に当初予定よりも2年遅れていた。 1969年10月の段階で、パンアメリカン航空の15機を筆頭に、日本航空やルフトハンザドイツ航空、ブラニフ航空やトランス・ワールド航空など世界の26社から122機を受注していた。これに対しコンコルドは16社から74機を受注していた。 一方で当時のボーイングは新型の亜音速旅客機である747を開発しているが、2707が実用化し旅客機として需要が減少した際に貨物機へ転用できるよう、小規模な改造で貨物機へ変更できる設計となっていた。
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