テラノバ遠征、1910年–1913年
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「トム・クリーン」の記事における「テラノバ遠征、1910年–1913年」の解説
「テラノバ遠征」も参照 スコットはクリーンを大いに評価しており、テラノバ遠征を計画しているときに最初に集めた者達に入っていた。隊の中でクリーンは極圏での経験がある数少ない者の1人だった。その最初の大きな貢献は、ハットポイントから130法定マイル (210 km) の位置に「1トン・デポ」を設置した13人の隊に加わったことだった。このデポは大量の食料と装備が蓄えられたのでその名が付いた。アプスリー・チェリー=ガラードとヘンリー・"バーディ"・ボワーズ大尉と共に、エバンス岬の遠征基地に戻るときに、不安定な海氷の上でキャンプしていて、災難寸前の経験をした。夜の間に氷が割れ、人が流氷の上に残り、橇と切り離された。クリーンは流氷から流氷を飛んで歩き、バリアの縁に達して助けを得られるようにして、他の者の命を救ったとされている。 クリーンは、南極点を目指して1911年11月に出発したスコットの大きな隊に入っていた。この旅には3つの段階があった。まず400法定マイル (640 km) のバリアを渡り、次に120法定マイル (190 km) のクレバスの多いベアドモア氷河を上って標高 10,000 feet (3,000 m) に達する。最後はさらに350法定マイル (560 km) 進んで南極点に着くというものだった。クリーンとウィリアム・ラシュリーはエドワード・エバンス大尉と共に最後の支援隊となって、南緯87度32分、南極点までは168法定マイル (270 km) の位置までスコットの本体に付いて行った。1912年1月4日、ここでクリーンの隊は基地への帰還を命じられ、一方スコット、エドガー・エバンス、ウィルソン、ボワーズ、ローレンス・オーツの5人が南極点への旅を続けた。クリーンの伝記作者マイケル・スミスに拠れば、クリーンはエドガー・エバンスの代わりに南極点行隊に加えられても良かったはずだった。エバンスは手を負傷したばかりであり、弱っていたのをスコットが気付かなかった。遠征隊の中でも頑丈な隊員に数えられていたクリーンは、バリアを越えるときにポニーを引いており、それで人が橇を曳く重労働を緩和していた。スコットの批判者で伝記作者のロランド・ハントフォードは、ベアドモア氷河の頂点まで南極点行に同行した軍医のエドワード・L・アトキンソンが、エドガー・エバンスよりもクリーンかラシュリーを最後まで同行させることを推薦していたと記録している。この地点まで2か月間努力してやって来た後、目標までそれほど近い地点から引き返さねばならないことで、クリーンは悔し涙を流していた。 クリーン、ラシュリー、エバンスはハットポイントまで700法定マイル (1,100 km) 戻る必要があった。北に向かい始めてから間もなく、3人の隊はベアドモア氷河に戻る道を見失い、台地から氷河まで急に高さが落ちる大きなアイスフォールの方に回り道をしてしまった。持っていた食料が乏しくなり、次の補給拠点まで到着する必要性があったので、その橇のままアイスフォールを滑り降りる決断をした。橇はおそらく制御できなくなるはずだった。3人は2,000フィート (600 m) を滑り降り、幅200フィート (61 m) のクレバスを交わし、氷河の縁でひっくり返ることで滑降を終えた。エバンスは後に「どうやって全く無傷で切り抜けられたのかとても説明できるものではない」と記した。 アイスフォールでギャンブルしたことが功を奏し、2日後には補給所にたどり着いた。しかし、氷河を降る方向づけには大きな困難さがあった。ラシュリーは「我々が踏み入れた迷路と間一髪のところで通り抜けなければならなかった様子を説明できない」と記した。エバンスは降りる道を見つけるために、ゴーグルを外して見たので、その結果雪盲を患い、お客さんになってしまった。この隊が氷河を脱してバリアの高さまできたとき、エバンスは壊血病の最初の兆候を見せていた。2月初めまでに強い痛みを感じるようになり、関節が腫れて変色し、血尿が出ていた。クリーンとラシュリーが1トン・デポまで必死の努力をした結果、2月11日に到着した。この地点でエバンスが倒れた。クリーンはエバンスが死んだものと思った。エバンスの証言では「彼の熱い涙が私の顔に落ちてきた」としていた。ハットポイントまでまだ100法定マイル (160 km) 以上あり、クリーンとラシュリーはエバンスを橇に乗せて曳き始め、「まだ何とか残っていたブランディの数滴を彼の命に注ぎこんだ」2月18日にはコーナーキャンプに到着したが、それでもハットポイントまで35法定マイル (56 km) あった。食料も尽きかけていた。食料は1日か2日分残っているだけだったが、まだあと4、5日は橇を曳いていく必要があった。ここでクリーン1人が助けを呼びに行くことに決めた。クリーンには僅かなチョコレートとビスケット3枚があるだけで、テントや生存のための装備もなく、ハットポイントまでを18時間で歩き、倒れこむようにして到着した。その直後に激しい吹雪が始まっており、その吹雪でクリーンが死んでいた可能性が強かった。さらに救援隊の出発も1日半遅れた。しかし、救援は成功した。ラシュリーとエバンスは生きてベースキャンプに運び込まれた。クリーンはその耐久力の重要性を控えめに見ていた。文書に残されたものも少ない中で、ある手紙に「助けを求めて30マイル行くのが私の役目になった。1組のビスケットと1本のチョコレートがあるだけだった。さて諸君、私が小屋に着いたときは本当に弱っていた」と記した。 スコット隊は帰還できなかった。エバンス岬での1912年の冬は重苦しいものになった。南極点行隊は間違いなく遭難したのがわかっていた。フランク・デベナムは「冬の間に、小屋の中の沈んだ仲間の間で快活さの中心になっていたのが、再度クリーンだった。」と記した。1912年11月、クリーンは南極点行隊を探す11人の捜索隊に加わった。11月12日、隊は雪のケアンを見つけ、それが雪の積もったテントだと分かった。その中にはスコット、ウィルソン、ボワーズの遺体があった。クリーンは後にスコットに触れて、「良き友を失った」と記していた。 1913年2月12日、クリーンと残っていた隊員はテラノバでニュージーランドのリトルトンに到着し、それから間もなくイングランドに戻った。バッキンガム宮殿で遠征隊の残ったメンバーが、国王ジョージ5世と、第一海軍卿となったルイス・アレグザンダー・マウントバッテンから極圏メダルを受章した。クリーンとラシュリーは二人ともエバンスの人命救助についてアルバート・メダル2等級を、1913年7月26日にバッキンガム宮殿で国王から授けられた。クリーンは1910年9月9日に遡って上等兵曹に昇格された。
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