テラノバ遠征、1910年–1913年とは? わかりやすく解説

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テラノバ遠征、1910年–1913年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 09:14 UTC 版)

トム・クリーン」の記事における「テラノバ遠征、1910年–1913年」の解説

テラノバ遠征」も参照 スコットクリーン大い評価しており、テラノバ遠征計画しているときに最初に集めた者達に入っていた。隊の中でクリーン極圏での経験がある数少ない者の1人だった。その最初大きな貢献は、ハットポイントから130法定マイル (210 km) の位置に「1トン・デポ」を設置した13人の隊に加わったことだった。このデポ大量食料装備蓄えられたのでその名が付いた。アプスリー・チェリー=ガラードヘンリー・"バーディ"・ボワーズ大尉と共にエバンス岬遠征基地に戻るときに、不安定な海氷の上キャンプしていて、災難寸前経験をした。夜の間に氷が割れ、人が流氷の上残り切り離された。クリーン流氷から流氷飛んで歩きバリアの縁に達して助け得られるようにして、他の者の命を救ったとされている。 クリーンは、南極点目指し1911年11月出発したスコット大きな隊に入っていた。この旅には3つの段階があった。まず400法定マイル (640 km) のバリア渡り次に120法定マイル (190 km) のクレバスの多いベアドモア氷河上って標高 10,000 feet (3,000 m) に達する。最後はさらに350法定マイル (560 km) 進んで南極点に着くというものだったクリーンとウィリアム・ラシュリーはエドワード・エバンス大尉と共に最後支援となって南緯8732分、南極点までは168法定マイル (270 km) の位置までスコット本体付いて行った1912年1月4日、ここでクリーンの隊は基地への帰還命じられ一方スコット、エドガー・エバンス、ウィルソン、ボワーズ、ローレンス・オーツの5人が南極点への旅を続けたクリーン伝記作者マイケル・スミス拠ればクリーンはエドガー・エバンスの代わりに南極点行隊に加えられても良かったはずだった。エバンスは手を負傷したばかりであり、弱っていたのをスコット気付かなかった。遠征隊の中でも頑丈な隊員数えられていたクリーンは、バリア越えるときにポニー引いており、それで人が曳く重労働緩和していた。スコット批判者伝記作者のロランド・ハントフォードは、ベアドモア氷河頂点まで南極点行同行した軍医エドワード・L・アトキンソンが、エドガー・エバンスよりもクリーンラシュリー最後まで同行させることを推薦していたと記録している。この地点まで2か月努力してやって来た後、目標までそれほど近い地点から引き返さねばならないことで、クリーン悔し涙流していた。 クリーンラシュリーエバンスはハットポイントまで700法定マイル (1,100 km) 戻る必要があった。北に向かい始めてから間もなく、3人の隊はベアドモア氷河に戻る道を見失い台地から氷河まで急に高さが落ち大きなアイスフォール方に回り道をしてしまった。持っていた食料乏しくなり、次の補給拠点まで到着する必要性があったので、そののままアイスフォール滑り降りる決断をした。はおそらく制御できなくなるはずだった。3人は2,000フィート (600 m) を滑り降り、幅200フィート (61 m) のクレバス交わし氷河の縁でひっくり返ることで滑降終えたエバンスは後に「どうやって全く無傷切り抜けられたのかとても説明できるものではない」と記したアイスフォールギャンブルしたことが功を奏し2日後には補給所にたどり着いた。しかし、氷河を降る方向づけには大きな困難さがあった。ラシュリーは「我々が踏み入れた迷路間一髪のところで通り抜けなければならなかった様子説明できない」と記したエバンス降りる道を見つけるために、ゴーグル外して見たので、その結果雪盲患いお客さんになってしまった。この隊が氷河脱してバリアの高さまできたとき、エバンス壊血病最初兆候見せていた。2月初めまでに強い痛み感じるようになり、関節腫れて変色し血尿出ていた。クリーンラシュリーが1トン・デポまで必死努力をした結果2月11日到着した。この地点エバンス倒れたクリーンエバンス死んだものと思ったエバンス証言では「彼の熱い涙が私の顔に落ちてきた」としていた。ハットポイントまでまだ100法定マイル (160 km) 以上あり、クリーンラシュリーエバンス乗せて曳き始め、「まだ何とか残っていたブランディの数滴を彼の命に注ぎこんだ」2月18日にはコーナーキャンプに到着したが、それでもハットポイントまで35法定マイル (56 km) あった。食料尽きかけていた。食料1日2日残っているだけだったが、まだあと4、5日はを曳いていく必要があった。ここでクリーン1人助け呼びに行くことに決めたクリーンに僅かなチョコレートビスケット3枚があるだけで、テント生存のための装備もなく、ハットポイントまでを18時間歩き倒れこむようにして到着した。その直後激し吹雪始まっており、その吹雪クリーン死んでいた可能性強かった。さらに救援隊出発1日遅れた。しかし、救援成功したラシュリーエバンス生きてベースキャンプ運び込まれた。クリーンはその耐久力重要性控えめ見ていた。文書残されたもの少ない中で、ある手紙に「助け求めて30マイル行くのが私の役目になった1組ビスケットと1本のチョコレートがあるだけだった。さて諸君、私が小屋着いたときは本当に弱っていた」と記したスコット隊は帰還できなかった。エバンス岬での1912年の冬は重苦しいものになった南極点行隊は間違いなく遭難したのがわかっていた。フランク・デベナムは「冬の間に、小屋の中の沈んだ仲間の間で快活さ中心になっていたのが、再度クリーンだった。」と記した1912年11月クリーン南極点行隊を探す11人の捜索隊加わった11月12日、隊はケアンを見つけ、それが積もったテントだと分かった。その中にはスコットウィルソン、ボワーズの遺体があった。クリーンは後にスコット触れて、「良き友を失った」と記していた。 1913年2月12日クリーン残っていた隊員テラノバニュージーランドリトルトン到着し、それから間もなくイングランド戻ったバッキンガム宮殿遠征隊の残ったメンバーが、国王ジョージ5世と、第一海軍卿となったルイス・アレグザンダー・マウントバッテンから極圏メダル受章したクリーンラシュリー二人ともエバンス人命救助についてアルバート・メダル2等級を、1913年7月26日バッキンガム宮殿国王から授けられた。クリーン1910年9月9日遡って上等兵曹昇格された。

※この「テラノバ遠征、1910年–1913年」の解説は、「トム・クリーン」の解説の一部です。
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