ソ連時代の移住者
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1925年に日ソ基本条約が締結され、両国間の国交が回復した後も、一般国民の接触は厳しく制限された。特にソ連からの出国は一部の外交・貿易関係者を除くとほとんどなく、日本共産党や他の無産政党への指令も日本人活動家をモスクワへ呼びつけて、あるいは第三国での接触によって行われたため、日本に在住するロシア人の大多数は依然として社会主義革命によって亡命を余儀なくされた白系が占めた。彼らの多くは既述の通り、かつてロシア帝国の領土だった南樺太に住んでいた。また、ロシア帝国の勢力圏があった満州(1932年から満州国)には1930年代で約5万人の白系ロシア人が在住していた。元々はロシア人によって建設された同国北部のハルビン市ではロシア人コミュニティにより聖ソフィア大聖堂などの大規模な東方正教会信仰が建設・維持されていたが、第二次世界大戦が起こると白系ロシア人の多くは敵性外国人として監視・拘留の対象となった。さらに戦争末期の1945年8月9日に起こったソ連対日参戦に巻き込まれ、中国東北部(旧満州国)からソ連領内へ連行、あるいはソ連領に編入されたサハリン南部(南樺太)で拘束され、日本への再亡命を阻止された者もいた(中にはその後ソ連によって粛清された者さえいた)[要出典]。日本への脱出に成功した白系ロシア人の多くは北海道に居住したが、その後、東京などへ移住した人も多い[要出典]。また、同年8月6日の広島原爆投下では白系ロシア人の11人が被爆し、うち3人が年内に亡くなった事が明らかになった。 ソ連は戦勝国として極東委員会や対日理事会に参加し、極東国際軍事裁判でも判事や検察官を派遣したが、対日占領政策の主導権は米国に握られ、北海道や本州へのソ連軍進駐も実現しなかったため、南樺太や千島列島全域のソ連領編入を除いた日本本土へのソ連の影響力は農地改革での不在地主排除など限定的なものに抑えられた。さらに朝鮮戦争の激化やレッドパージの強行で日本国内での共産主義運動が停滞する中、1952年4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効して日本の主権が回復すると、前年の講和会議で調印を拒否したソ連は日本との公式関係が途絶えた。 1956年の日ソ国交回復により両国の外交関係は修復され、シベリアへの長期抑留者の日本帰国などが実現したが、依然として両国関係は北方領土問題などで冷え切り、加えて第二次大戦後の冷戦下で日本は米国を中心とする自由主義陣営に所属したため、互いを仮想敵国として監視・警戒する状況が続いた。ソ連からは大使館員や貿易関係者、ソ連国営航空アエロフロート、タス通信などの報道関係者が日本に居住したが、彼らを監視する警視庁公安部などによるスパイ活動の摘発も続けられた。一方、文化・芸術面での交流は徐々に進み、知識人や芸術家が日本を短期間訪問する例も生まれたが、石井紘基の妻であるナターシャのように、ソ連国民にとって日本人との結婚は社会での冷遇と直結し、たとえ正式な結婚が認められていてもソ連からの出国が長年認められない場合もあった。変わった例では、1938年にソ連へ亡命して逮捕・拘禁された後、ソ連国籍を取得した日本人役者の岡田嘉子が1972年に日本に移住(帰郷)し、1986年のソ連帰国(再渡航)まで滞在した。
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