ソ連検察の反対尋問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:09 UTC 版)
「アルベルト・シュペーア」の記事における「ソ連検察の反対尋問」の解説
一方、ソ連検事補ラジンスキーは容赦なくシュペーアを攻め立てた。 ラジンスキーはシュペーアを侵略戦争の共同謀議罪に問おうと『我が闘争』(ラジンスキーはこれをソ連への侵略を想定したものだと主張していた)やヒトラーとの友人関係を追及する質問をしたが、その回答の中でシュペーアは「私は『我が闘争』を完全に通読したことがありません」「私はヒトラーと密接な接触をもっていましたし、ヒトラー個人の意見も耳にしました。この個人的意見という言葉からヒトラーがこの記録に示されているような種類の何らかの計画をもっていたと推測されては困ります。私は1939年にヒトラーがソビエトと不可侵条約を結んだ時、ことのほか安心しました。つまり貴国の外交関係者も『我が闘争』を読んでいたに違いないですが、にも関わらず貴国は不可侵条約を結んだからです。」と述べてラジンスキーをやりこめた。 また、イギリス人の裁判長サー・ジェフリー・ローレンス(後の初代オークシー男爵、第3代トレヴェシン男爵)もしばしばシュペーアに味方し、ラジンスキーのシュペーア追及の動きを封じた。シュペーアもこの連合国内の不和を感じ取って、ソ連の検事に対してのみ、回答を拒否する高飛車な態度をしばしば取った。たとえばシュペーアがヒトラー側近数名を批判したと証言した時、ラジンスキーは「その数名とは誰か?」と聞いたが、シュペーアは「いや、貴方にはそれは申し上げられません」と回答した。ラジンスキーが「貴方がその人たちの名を言いたくないのは実際には誰も批判してないからだろう。違うか?」と追及してくると、シュペーアは「私は批判しました。しかしここでその人の名前を言うのは正しくないと考えるのです」と回答した。ラジンスキーは「シュペーアが質問に答えない場合、非常に多くの時間が無駄になる」と抗議したが、裁判長は「しかしラジンスキー検事。すでにその証言聴取の初めからこの被告は、戦争捕虜と労働者が自らの意思に反してドイツへ連れてこられたことを自分は知っていると認めています。このことを彼は否定していないのです」と述べてラジンスキーをたしなめた。 ソビエトに対してのみ頑固な態度をとるシュペーアの法廷戦術は概ね功を奏したといえる。反対尋問が終わった後のシュペーアは勝利を確信して上機嫌だったという。
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