ジョホール・バル攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:14 UTC 版)
英軍の次の抵抗線はムアル、ゲマスを連ねるおおむねジョホール州境の線、ついでバトバハ及びクルアンを連ねる線と予想された。クワラルンプール以南は地形が開けており、道路網も発達しているので第五師団と近衛師団を並べてジョホール水道の線に急追することにした。しかし、第五師団は休養を要し、戦車第一連隊を基幹とする向田支隊を編成し、水道上を追撃させた。 1月14日、向田支隊の先頭の歩兵二中隊がテカーペツサル河を通過したときに橋梁が爆破され、同時にジャングルから急射があり、オーストラリア第8師団と戦闘になり、空襲も受け、向田は大きな被害を出し、15日も向田支隊は攻撃を続けたが、死傷続出して進展しなかった。この戦況を見た第25軍は14日に第五師団に前進を命じ向田支隊を師団長の指揮下に入れた。15日、第五師団は諸部隊を部署し、前進を命じた。同日午後10時、薄暮攻撃でオーストラリア軍が抵抗を続けていたゲマスへの突入に成功した。16日午前11時、向田支隊は河村少将の指揮下に入る。河村少将は16日薄暮から当面の敵をバツナム付近に向かって攻撃し、以後セガマットに向かい突進を企図し攻撃を準備した。19日午前10時30分バツナムを占領、続いてセガマットに追撃した。豪軍はバツナム東方ムアル河付近に陣地を占領して日本の前進を阻止し、ブローカサップ西側ムアル河の橋梁を爆破した。河村少将はこの陣地の攻撃に移り、杉浦部隊(隊長は歩兵第21旅団長杉浦英吉少将)は安藤部隊を併せ指揮してセガマットに向かい追撃に移ったため、ブローカサップ付近の豪軍は19日夜に退却を始めた。河村部隊はこの敵を追撃し20日午前11時30分セガマットに突入したが、再びセガマット河左岸高地による豪軍に前進を阻止され戦闘になり、同夜同陣地を占領した。 20日、杉浦部隊(隊長は歩兵第21旅団長杉浦英吉少将)が進出すると河村部隊と交代させ、一般方向をアエルヒタムにとって追撃させた。杉浦少将は安藤部隊を第一線として追撃を始め、22日未明、ラビスを占領し、その後、歩兵第21連隊(連隊長原田憲義大佐)をもってヨンペンに向かい追撃させた。師団長は河村部隊をして杉浦部隊に続行した後、ラピス、ヨンペン道を東方に分進し、クルアン方向に突進するように命令した。河村部隊は24日午後4時20分ニョルを占領した。英軍はクルアン、エルヒタム付近で抵抗を企図している模様であり、師団長は25日砲兵隊主力を推進して河村部隊を支援し、速やかなクルアン奪取を決した。25日午後7時、クルアン飛行場を占領、午後11時15分、クルアンを占領。原田部隊は24日午前8時30分ヨンペンに進入し、エルヒタム方向に追撃した。杉浦部隊方面の英軍はアエルヒタム北方および西方高地に陣地を占領し、杉浦部隊がその前進陣地を攻撃した。26日午前5時30分、夜襲でアエルヒタム付近を占領し、追撃に移った。 第五師団はジョホール州に進入して以来、英軍の交通破壊で追撃戦は難渋した。師団長は1月26日に重点をクルアン、レンガム道方面に移して追撃を続行することに決めて命じた。30日午前2時、杉浦部隊はアイエルベンハン通過後、クライで河村部隊に合一し、31日夕、ジョホール・バルに突入した。 近衛師団は1942年1月10日の第25軍命令によって、ラワン以南において第五師団の一部を超越南進し、海岸道に沿う地区よりマラッカ付近を経てシンガポールに向かい敵を急進すべしと命じられた。海岸道に沿い前進中の近衛師団は、17日にムアル河以南地区の掃討を終わってさらに前進していた。近衛師団長は、岩畔追撃隊(隊長・岩畔豪雄大佐)をもってムアル、バリットスロン、ヨンペン、ジョホール道を、国司追撃隊(隊長・国司憲太郎大佐)をもってムアル、バリットスロン、バトパハ道を併列して追撃させた。道中、両追撃隊と激しい戦闘になったバクリ付近の敵の一部に退却の兆候を認めた西村師団長は19日国司追撃隊に対し、戦線を離脱して海岸道方向に転進し、一部でバトパハを攻撃させ、主力でアエルヒタムに突進するように命じた。バクリの英軍はバリットスロンの西方に陣地を占領して抵抗を続けたが、22日殲滅戦でほとんど潰滅した。 1月22日第五師団がヨンペン北方に進出したため、同地以北では敵の大きな抵抗は予期できない状況となった。そのため、近衛師団は23日午後1時30分、一部をもってヨンペン方向の敵に対抗させ、師団主力をもって海岸方面から急追することを命じた。国司追撃隊は第二大隊主力でアエルヒタム方向の敵に対し、師団左側を援護させ、約二中隊で北方から、連隊主力で東北方からバトパハを攻撃させた。岩畔追撃隊はヨンペン方向に前進予定だったが、師団命令によってセンガラン方向に攻撃前進した。25日午前12時、国司追撃隊はバトパハに突入し、夕刻同市を占領した。こうしてジョホール州南部における英軍の組織的抵抗はついに崩壊し、近衛師団はジョホール・バルに向かい追撃を始めた。岩畔追撃隊は31日夕刻ジョホール水道に到達し、国司追撃隊は31日午後11時カンカルチョウに進出し、以後近衛師団はジョホールバル西北方地区に兵力を集中してシンガポール攻撃を準備した。 英軍側は、ABDA司令部司令官・アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)大将がジョホールでの戦闘は不利と判断し、1月28日に全英軍のシンガポール撤退を決心し、撤退を参謀本部に打電し、30日夜撤退を開始した。マレー軍司令官アーサー・パーシヴァル中将は「撤退は日本軍の妨害もなく実施され、1月31日をもってジョホールバル橋頭堡部隊と行方不明のものとを除き、全部隊はシンガポール島の撤退を完了した」と報告した。 日本陸軍は12月8日の上陸からジョホール・バル占領に至るまでの55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復、1100キロを進撃し、海上機動距離は650キロ。陸戦戦果は遺棄死体が約5000名、捕虜が約7800名。第25軍は戦死者1535名、戦傷者2257名。第三飛行集団は戦死者185名、戦傷者180名。
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