ジョホール王国の成立と三角戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)
「ジョホール王国」の記事における「ジョホール王国の成立と三角戦争」の解説
マフムード・シャーはムラカ南方のムアルに逃れて再起をはかったが失敗し、そこを追われてマレー半島東岸で王国の属領であったパハン(現マレーシア・パハン州)に移った。さらに海上民が多く住むビンタン島(現インドネシア・リアウ諸島州)で体勢を立て直し、1512年以降5回にわたってムラカを攻略したが成功しなかった。それに対し、ポルトガルは1526年、ビンタン島を攻撃して、ここで徹底的な略奪をはたらいた。 マラッカ海峡に臨む港市は対ポルトガル連合を組んだが、結局、ポルトガルからムラカを奪還することができず、マフムード・シャーは逃亡先のスマトラ島のカンパルで失意のうちに世を去った。その次男であったアラウッディン・リアヤト・シャー(英語版)は、1528年、マラッカ王家の分流にあたるパハン王家の助力を得て、カンパルからマレー半島南端のジョホールに移り、ジョホール川上流のプカン・トゥアで王国を再建した。これがジョホール王国である。このとき、マフムード・シャーの長男ムザファルはペラク王国(現マレーシア・ペラ州)を建てている。 ジョホール王国の政庁はジョホール川河口のサヨン・ピナンに置かれた。王国はこのほかビンタン島を本拠として近隣の島々へも支配権をおよぼし、カトリック国ポルトガルに対抗した。ジョホール王国は、首都の位置が変わったというだけで、実質的にはマラッカ王国そのものであった。ジョホールの一派はさらに、シャリーフ・カブンスワン(英語版)を中心としてミンダナオ島(現フィリピン)にムスリム国家のマギンダナオ王国を建国した。 ムラカにおけるポルトガルの占領政策は、ムラカの港市を城塞都市化し、市街地中心の丘に歴代マラッカ王の墓石を用いて監視塔をつくり、さらに、丘頂の宮殿をカトリック教会に改造したりするなど相当に横暴なものであった。ジョホール王国は、スマトラ島北端にあったアチェ王国やオランダ(後述)と連合してしばしばポルトガル制圧下のムラカを攻撃した。ポルトガル勢力は、1535年と1536年の2度にわたりジョホールのプカン・トゥアを攻撃し、集落を徹底的に破壊したが、住民は内陸部に避難し、ポルトガル人が退去したあと戻って集落を再建した。 アジア諸国の商人、とくにムスリム商人はカトリックの手に落ちたムラカをしだいに忌避、敬遠するようになり、ムラカの港市としての繁栄はしだいに過去のものとなっていった。ポルトガルが課した高い関税や貿易上のさまざまな制約も嫌悪され、アジアの貿易船はアチェ王国やジャワ島を本拠とするバンテン王国を利用するようになった。ムラカの価値を下落させてしまったのは、皮肉にもポルトガル人自身だったのである。 ムラカとアチェは、マラッカ海峡を通航する船をめぐって直接の競争相手となり、また、スマトラ島東岸地域への影響力の行使をめぐっても対立した。アチェ王国は、マラッカ海峡の通商の利を一挙に掌握すべくポルトガルとジョホールの双方を攻撃し、ここにいたって「三角戦争」(Triangular war)と称すべき状況が生まれた。アチェ王国は1524年にパサイのポルトガル要塞を占領し、さらに、しばしばジョホール王国が支配していた港市に艦隊を派遣し、略奪をおこなった。1564年か65年にはジョホール王国の当時の王都ジョホール・ラマ(マレー語版)(コタ・バトゥ)を攻撃して莫大な財宝を略奪し、王族をはじめとする捕虜をアチェに連行した。アチェはジョホールに傀儡の王を立てたが、ジョホールはまもなくそれを廃して独立を回復した。 アチェ王国のスルタン、アラウッディン・アルカハル(英語版)はさらに、オスマン帝国最盛期の英主として知られるスレイマン1世に艦隊のマラッカ海峡派遣を要請し、スレイマン1世はこれに応えて17隻のオスマン艦隊を1569年に派遣、ムラカとジョホールを攻撃した。アチェのこの台頭に対し、ポルトガルとジョホールは一時休戦協定を結んだが、この協定は同床異夢であったため短命に終わった。 ジョホールは再びポルトガル勢力からの攻撃をうけるようになり、1587年には王都がポルトガル勢力によって破壊されている。しかし、ジョホール王国は、その都度スマトラ東岸を介して胡椒産地と関係を保持し、また、マカッサルに逗留したマレー人を通してバンダ諸島(現インドネシア。モルッカ諸島の一部)の丁字やナツメグを取引して国力を回復させ、16世紀末頃には勢力を伸張させた。そのため、アチェは一時ポルトガルと和解してジョホールに対することを余儀なくされるほどであった。 17世紀初頭、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)が東南アジアに達し、オランダ東インド会社を設立してアジア貿易に参入した。このとき、オランダはアジアの香料貿易をめぐってポルトガルと対立しており、ポルトガルとの対抗上、ジョホール王国を同盟相手として選んだ。1606年の5月および9月、オランダのコルネリス・デ・ヨンゲ(英語版)総督とジョホールのラジャ・ボングスのあいだで2つの同盟条約が調印された 。
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