サン=クロチルド教会の正オルガニスト期とは? わかりやすく解説

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サン=クロチルド教会の正オルガニスト期 (1858年–1872年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 09:34 UTC 版)

セザール・フランク」の記事における「サン=クロチルド教会の正オルガニスト期 (1858年1872年)」の解説

フランク彼の3つ目かつ最後となるオルガニスト職に刺激され活気づいていた。1858年1月22日、彼は奉献間もないサント・クロチルド聖堂のメートル・ド・シャペル(maître de chapelle)のオルガニスト就任した。この職は彼がその後生涯にわたって留まるのである。7か月後、この教会新設されカヴァイエ=コルオルガン3段の手鍵盤備えるもので、フランクがこの楽器の正奏者になるとともにテオドール・デュボワ合唱指揮者と副オルガニスト務めることになった。このオルガンフランク演奏作曲与えた影響最初期ピアニストとして経験同様に彼のその後作曲活動考えにあたって無視することはできない。ノルベール・デュフォルク(Norbert Dufourcq)はこの楽器について疑いなく制作者のこの時期までの傑作として位置付けられる」と記している。フランク自身サント・クロチルド教会司祭にこう述べている。「私がどれほどこの楽器愛しているのか、あなたがご存知だったなら(中略)指の下でのしなやかさ、そして私の思い従順なことといったら!」フランク自身30鍵の足鍵盤を持つこのオルガン性能負けじとプレイエル社から購入した練習用足鍵盤自宅に置き、教会オルガンの前で何時間も過ごすのに加えて足鍵盤技術向上に勤しんだ。このオルガンが持つ響き美しさ注がれ優れた技術により、彼は即興演奏家として、またオルガンはもちろん他のジャンル作曲家としても名声を得るようになっていった。オルガン曲声楽曲、そしてハーモニウム曲が順繰り作曲されるようになり、そうした中で生まれた楽曲では『3声のミサ曲』(1859年)が最もよく知られる。この作品何年もかけて作曲されたために楽章間で出来不揃いであるが、ここからフランク作品中でも最も長く愛される曲の1つである『天使の糧』が生まれている。これ以上注目されるのが、1860年から1862年にかけて書かれオルガンのための『6曲集』である。この曲集は今日でも演奏機会の多いオルガンであり、ローリン・スミス(Rollin Smithによれば100年以上にわたるフランスオルガン芸術史における初めての傑作、そして「メンデルスゾーン以降書かれた最も重要なオルガン音楽」である。フランク各曲サン=サーンスなどの同僚ピアニストオルガニスト、師であるブノワ、そしてカヴァイエ=コル献呈している。曲集中の『前奏曲、フーガと変奏曲Op.18と『交響的大曲Op.17フランクオルガン作品中でも最もよく知られるのであるオルガニスト即興演奏としての名声が高まるにつれ、フランクはますますカヴァイエ=コル新設または改修したオルガン除幕式奉献式での演奏任されるようになっていった。彼はルイ・ルフェビュール=ヴェリーオルガニストとなったサン=シュルピス教会新しオルガン1862年)をはじめ、以降ノートル=ダム教会、サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂英語版)、サントトリニテ教会などで演奏した。これらの楽器中には彼が単独もしくはサン=サーンスと共に助言行ったものもある。フランク担当するサント・クロチルド聖堂では、彼の即興演奏聴くために人々ミサ礼拝訪れ始めていた。さらに、フランク自作他の作曲家作品取り上げて聖堂でのオルガン演奏会開催するようになっていた。そうした中でおそらく最も知られる演奏会1866年4月リスト出席した日曜ミサだろう。聖歌隊席に腰かけフランク即興演奏聴いたリストはこう述べた。「あの時ピアノ三重奏曲集を書いた人物のことを、これまでに私が忘れてしまうことなどあり得るだろうか。」これに対してフランクはこう不平もらしたではないか思われる。「あれ以降もっとい仕事をしてきたと思うのだが。」そのひと月後にリストサント・クロチルド聖堂においてフランクオルガン作品紹介する演奏会企画し聴衆から好評を得るとともに音楽雑誌にも好意的に報じられた。フランクリストだけでなく、活動主軸ドイツに置くハンス・フォン・ビューロー演奏聴けることを喜んだまた、フランク1869年ノートル=ダム聖堂アントン・ブルックナー演奏を耳にし、ドイツオルガン音楽とそれらをいかに演奏すべきかという点について理解深めている。彼は定期的に門下生集まりを催すようになり、オルガンには建前から関わっていたに過ぎなかった弟子たちフランク作曲技法関心を示すようになっていった。 フランクはこの時期にも合唱用いた作品作曲し続けたが、大半出版されないままとなった当時音楽院修了した音楽家でも皆がそうであったように、フランク過去多声音楽詳しくなかった。フランク礼拝音楽をその当時様式沿って作曲しデイヴィスはこれを「宗教的な偏りを持つ世俗音楽」と表現したそうした状況ではあったがフランク1869年から主要な合唱作品となるオラトリオ至福』の作曲とりかかり普仏戦争勃発による中断等を経て10年余りをかけて完成させた。1848年の革命の際と同様に、この戦争によって彼の弟子多くパリ離れもしくは戦闘落命するか障害を負うなどして彼の元から去っていった。彼は再び愛国的な楽曲いくつか作曲したが、当時時代厳しい状況の下では演奏されることはなかった。収入減少するとともに食料品燃料価格高騰しフランクとその一家経済的な苦境陥った音楽院1870年から1871年の年度は開校しなかった。こうした中、フランス音楽家の間には自らの音楽対す認識変化生じていた。とりわけ戦後からは確固たるフランス音楽として「ガリア芸術 Ars Gallica」を追い求めるようになったのである。この言葉新たに結成され国民音楽協会標語として掲げられた。フランク協会最古参会員となり、1871年11月開かれた最初の演奏会プログラムにはフランク作品取り上げられた。

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