サイレントの時代から
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1908年(明治41年)5月25日、福岡県福岡市に生まれる。 1921年(大正10年)3月、旧制小学校を卒業、同年4月、福岡県筑紫郡堅粕町(現在の同県福岡市博多区堅粕)の福岡県立福岡中学校(現在の福岡県立福岡高等学校)に入学するも、のちに中途退学する。満17歳になる1925年(大正14年)には、同年6月に設立され、花園天授ヶ丘に御室撮影所を開いたマキノ・プロダクションに入社、光線部(のちの同社配光部、照明部)に配属される。同部には主任技師として大海源太郎がおり、藤林は大海に師事した。当時同社の助監督であった管家紅葉(1909年 - 2006年)は晩年の回想で、大海は「心安かった」、その弟子である藤林も「親切でした」とその人柄を述べている。同年に入社、同じ照明部に配属された同僚に西川鶴三(1910年 - 1970年)がいる。 1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、マキノ・プロダクションは、長男のマキノ正博(のちのマキノ雅弘、1908年 - 1993年)を中心とした体制になる。新体制において藤林の名は見られないが、師の大海が「電氣主任」として記されており、新体制以降も同社に在籍、翌1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象、撮影松浦茂)には藤林 まさるの名で廣石常雄と共同で「配光」(照明)としてクレジットされており、同年7月6日に公開された『少年戦線』にも、同名義で大海と共同で「照明」としてクレジットされている。正確な技師昇進時期は不明であり、この時期に手がけた他の作品については、現状のデータベース等では明らかにはされていない。1931年(昭和6年)に入ると同社の製作業務が行われなくなり、同年10月、同社は解散しているが、同年のある時期に松竹下加茂撮影所に移籍した。
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サイレントの時代から
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1910年(明治43年)2月19日、京都府京都市に生まれる。 1922年(大正11年)3月、旧制小学校を卒業、初等教育を終え、その後の学歴等は不明であるが、満15歳になる1925年(大正14年)には、同年6月に設立され、花園天授ヶ丘に御室撮影所を開いたマキノ・プロダクションに入社、照明部に配属される。『日本の映画人 - 日本映画の創造者たち』では入社を翌年の「大正15年」(1926年)としている。照明助手として働き、技師に昇進したのは、1928年(昭和3年)10月20日に公開された同世代のマキノ正博(のちのマキノ雅弘、1908年 - 1993年)の監督作『浪人街 第一話 美しき獲物』であった。このとき西川はまだ満18歳であった。同作は「キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・ワン」を受賞する等、高く評価される作品になった。同作における相棒である撮影技師も、若手の三木稔(のちの三木滋人、1902年 - 1968年)であり、マキノと三木とは、戦後に至るまでの長い仕事相手になる。このころ新調の背広を着て撮影所に現われた西川に片岡千恵蔵が「所内の池に飛び込んだら、二着買ってやる」と言ったところ、「一瞬のためらいもなく池に飛び込み、洋服二着をせしめた」のだという。 1929年(昭和4年)には、前年5月に同社から独立した片岡千恵蔵による片岡千恵蔵プロダクションに移籍している。同年2月15日に公開された『続万花地獄 完結篇』(監督稲垣浩・曾我正史、撮影石本秀雄・池戸豊)には、「西川光男」名義で岸田九一郎と共同で照明技師としてクレジットされ、翌3月16日に公開された『鴛鴦旅日記』(監督稲垣浩、撮影池戸豊)にも、「西川光夫」名義で照明技師としてクレジットされており、同年の早い時期に移籍した。同年7月25日、牧野省三が亡くなり、マキノ・プロダクションは、長男の正博を中心とした体制になるが、新体制において西川の名はすでに見られない。その後も、月形龍之介の月形プロダクション、日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)、新興キネマ(現在の東映京都撮影所)と転々としたが、この時期に手がけた作品は明らかではない。 1936年(昭和11年)、東京・砧のピー・シー・エル映画製作所(現在の東宝スタジオ)に移籍した。同社は、1937年(昭和12年)9月10日に他の3社と合併して東宝映画になり、同撮影所は東宝映画東京撮影所になった。同社での初期の代表作は、1938年(昭和13年)8月21日に公開された『綴方教室』(監督山本嘉次郎、主演高峰秀子)であり、同作での相棒である撮影技師は三村明(1901年 - 1985年)であった。1940年(昭和15年)9月25日公開の『燃ゆる大空』(監督阿部豊、主演長谷川一夫)では宮島義勇(1909年 - 1998年)、1941年(昭和16年)3月26日公開の『長谷川・ロッパの家光と彦左』(監督マキノ正博、主演長谷川一夫・古川緑波)では伊藤武夫(1907年 - 1978年)とも組んでいる。同作の直前、長谷川一夫・山田五十鈴主演の『昨日消えた男』(監督マキノ正博、撮影伊藤武夫)では、西川とおなじマキノ・プロダクション出身の照明技師の藤林甲(1908年 - 1979年)がメインであったが、西川も応援で参加したことをマキノ正博がのちに著書『映画渡世 地の巻』に描いている。 同年12月8日には太平洋戦争に突入したが、製作本数の少なくなった同社に残り、1943年(昭和18年)1月14日公開の『阿片戦争』(監督マキノ正博、撮影小原譲治)や、同年2月25日公開の『ハナ子さん』(監督マキノ正博、撮影木塚誠一)、1944年(昭和19年)3月9日公開の『加藤隼戦闘隊』(監督山本嘉次郎、撮影三村明)等を手がけ、終戦を迎えた。
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