サイレントの時代からとは? わかりやすく解説

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サイレントの時代から

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 15:44 UTC 版)

藤林甲」の記事における「サイレントの時代から」の解説

1908年明治41年5月25日福岡県福岡市生まれる。 1921年大正10年3月旧制小学校卒業同年4月福岡県筑紫郡堅粕町現在の同県福岡市博多区堅粕)の福岡県立福岡中学校現在の福岡県立福岡高等学校)に入学するも、のちに中途退学する。満17歳になる1925年大正14年)には、同年6月設立され花園天授ヶ丘に御室撮影所開いたマキノ・プロダクション入社光線部(のちの同社配光部、照明部)に配属される。同部には主任技師として大海源太郎がおり、藤林大海師事した当時同社助監督であった管家紅葉1909年 - 2006年)は晩年回想で、大海は「心安かった」、その弟子である藤林も「親切でした」とその人柄を述べている。同年入社、同じ照明部に配属され同僚西川鶴三1910年 - 1970年)がいる。 1929年昭和4年7月25日牧野省三亡くなりマキノ・プロダクションは、長男マキノ正博(のちのマキノ雅弘1908年 - 1993年)を中心とした体制になる。新体制において藤林の名は見られないが、師の大海が「電氣主任」として記されており、新体制以降同社在籍、翌1930年昭和5年2月28日公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象撮影松浦茂)には藤林 まさるの名で廣石常雄と共同で「配光」(照明)としてクレジットされており、同年7月6日公開された『少年戦線』にも、同名義で大海共同で「照明」としてクレジットされている。正確な技師昇進時期不明であり、この時期に手がけた他の作品については、現状データベース等では明らかにはされていない1931年昭和6年)に入ると同社の製作業が行われなくなり同年10月同社解散しているが、同年のある時期松竹下加茂撮影所移籍した

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サイレントの時代から

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:38 UTC 版)

西川鶴三」の記事における「サイレントの時代から」の解説

1910年明治43年2月19日京都府京都市生まれる。 1922年大正11年3月旧制小学校卒業初等教育終えその後学歴等不明であるが、満15歳になる1925年大正14年)には、同年6月設立され花園天授ヶ丘に御室撮影所開いたマキノ・プロダクション入社照明部に配属される。『日本の映画人 - 日映画創造者たち』では入社翌年の「大正15年」(1926年)としている。照明助手として働き技師昇進したのは、1928年昭和3年10月20日公開され同世代マキノ正博(のちのマキノ雅弘1908年 - 1993年)の監督作浪人街 第一話 美しき獲物であった。このとき西川はまだ満18歳であった同作は「キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・ワン」を受賞する等、高く評価される作品になった同作における相棒である撮影技師も、若手三木稔(のちの三木滋人1902年 - 1968年)であり、マキノ三木とは、戦後に至るまでの長い仕事相手になる。このころ新調背広着て撮影所現われ西川片岡千恵蔵が「所内の池に飛び込んだら、二着買ってやる」と言ったところ、「一瞬ためらいもなく池に飛び込み洋服二着をせしめた」のだという。 1929年昭和4年)には、前年5月同社から独立した片岡千恵蔵による片岡千恵蔵プロダクション移籍している。同年2月15日公開された『続万花地獄 完結篇』(監督稲垣浩曾我正史撮影石本秀雄池戸豊)には、「西川光男」名義岸田九一郎共同照明技師としてクレジットされ、翌3月16日公開された『鴛鴦旅日記』(監督稲垣浩撮影池戸豊)にも、「西川光夫名義照明技師としてクレジットされており、同年早い時期移籍した同年7月25日牧野省三亡くなりマキノ・プロダクションは、長男の正博を中心とした体制になるが、新体制において西川の名はすでに見られないその後も、月形龍之介月形プロダクション日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)、新興キネマ現在の東映京都撮影所)と転々としたが、この時期手がけた作品は明らかではない。 1936年昭和11年)、東京・砧のピー・シー・エル映画製作所現在の東宝スタジオ)に移籍した同社は、1937年昭和12年9月10日に他の3社と合併して東宝映画になり、同撮影所東宝映画東京撮影所になった同社での初期の代表作は、1938年昭和13年8月21日公開された『綴方教室』(監督山本嘉次郎主演高峰秀子)であり、同作での相棒である撮影技師三村明1901年 - 1985年であった1940年昭和15年9月25日公開『燃ゆる大空』監督阿部豊主演長谷川一夫)では宮島義勇1909年 - 1998年)、1941年昭和16年3月26日公開の『長谷川ロッパ家光彦左』(監督マキノ正博主演長谷川一夫古川緑波)では伊藤武夫1907年 - 1978年)とも組んでいる。同作直前長谷川一夫山田五十鈴主演の『昨日消えた男』(監督マキノ正博撮影伊藤武夫)では、西川とおなじマキノ・プロダクション出身照明技師藤林甲1908年 - 1979年)がメインであったが、西川応援参加したことをマキノ正博がのちに著書映画渡世 地の巻』に描いている。 同年12月8日には太平洋戦争突入したが、製作本数少なくなった同社残り1943年昭和18年1月14日公開の『阿片戦争』(監督マキノ正博撮影小原譲治)や、同年2月25日公開の『ハナ子さん』(監督マキノ正博撮影木塚誠一)、1944年昭和19年3月9日公開『加藤隼戦闘隊』監督山本嘉次郎撮影三村明)等を手がけ、終戦迎えた

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